こと

RIMG0005

 

 

 

「小さな木箱に刻んだ小さなことがら」

真吉のほんの周辺でおきているものごとについての記録です。
(過去の記録は題字からリンクしています。)

2024.3.26. 薄手火蛾の繭

超暖冬。だった。
石油ストーブをひっぱりだしたのは2月5日の雪の日だった。
昨年はお正月。
その前は12月中。その前は11月、、、、と
1か月づつ後ろにずれてきている。
今冬2月は20度近くに気温が上がった日まであったが
3月は寒の戻りで少し冷え込んでいる。
けれども、石油ストーブに頼るほどの寒さでもない。
異常が通常になった感がある。

骨に沁みるような昔の寒さがないので散歩に出る回数も
立ち止まって周りを観察する時間も増えた。
先日、そんなぶらぶら散策の途中
薄緑色のキレイな形の繭のようなものを拾った。
硬めの和紙のような肌質で
親指の腹ほどの大きさ
ラグビーボール状なのだけど
先の一端ががま口のような形になって閉じており
がま口の口の一端から
チョウチンアンコウの触手のようなものが

にょっきりと伸び、枝にしっかりとつかまっている。
緑の飛行船が枝につかまって空中で停泊しているかのようだ。
頭上ではカラスがカーカー騒いでいて
繭をよく見ると嘴で挟んだ跡が落ち窪んである。
カラスがもの珍しさでどこからか持ってきて
落としたに違いない。

持ち帰って調べてみると
ヤママユガの仲間の
ウスタビガという蛾の繭であるらしい。
ヘルマンヘッセの小説に出てきそうな
目の模様のある大きく立派な蛾の一種だ。

がま口状のところが、本当にがま口のように開くというので
トライしてみる。
へ~へ~へ~、本当にパカッと口が開いた。
この天然のがま口の適度なしなやかさと剛性に感心。
覗き込むと住人が残した残存物が見えた。
住人は巣立った跡のようで居ない。
もしや、この質感なら、と、カラスの嘴でへこんだ跡を
内側からつま楊枝の丸みのある方の先で
恐るおそる押し返してみる。
思ったとおり!ペコっと元の形にもどった。
そしてがま口への圧を解くとパチッと元の形に閉じた。

月並みなのだけど
美しく同じ形を作り上げる虫たちに驚いてしまうのだ。
人間なんて、きっと誰かから教わらないと
自分の住処を作ることなどできないだろう。
できたとして、木を立てかけて草で覆うとか
岩に穴を掘るとかその程度なのではなかろうか?
自分で糸を吐き繭のごときものを作ること自体信じられないが
外から全体が見えもしないのに
そぎ落とすところが何もないほど
美しい同じ仕様の形を作ることができるのが凄い!!

などと、関心していると、
何処からか語りかけてくるものがある。

「上から目線で何を言うのだ、
我々はお前ら人類より何億年も前から地上に居る
大先輩なのだぞ、

あなたたち、ごく最近見かけるようになった未熟ものだろ?
我々は地球が何億年の存続を許した形なんだよ
言い替えれば地球という天体がつくりあげた形なんだから
それを美しと感じるのは当たり前のことだろ」と、
そんな声が聞こえたような気がした。
ぎょっとして、緑の繭を凝視する。

ふっと、最近読んでいる世界史の本
「一気に流れがわかる世界史」を思い出した。
秋田総一郎さんが、PHP文庫から上梓され
送っていただいたのだ。
文明がはじまってから2023年までの人類史を
本当に一気にグイグイ読ませてしまう本なのだ。
「要約の天才」と言って過言ではない。
要約の質が高いというのはもちろんなのだけど
こちらへの浸透力が強い。
簡潔な料理だけど印象に強く残る料理みたい。

この本は、人類(文明と呼ばれるものを獲得して以降)を
一つの流れで通してみた歴史を描いてみよう
という、ありそうでなかった試みの本なのだ。
まず、人類史の移り変わりの象徴を
宇宙から見える夜の地上に灯るあかりの量の移り変わりで
みてみる
ということからはじまる。
それは、読者の視点を地球を俯瞰するところに固定してしまう。
と、こまごましたことが何となく気にならなくなり
「人類」というものを見てやろう、という準備ができる。
魅力的な講義の導入のようにこちらに作用させつつ
ほぼ前人未踏の統計の基準を何に置くか
という難題を「灯の量」と設定し
その光量の最も強いところが文明の中心を意味し
その中心ではその時代の人類を象徴する出来事が
おこっているはずであり、その移動を追えば
人類に起こった最も最先端の出来事を

常に一つの流れとしてとらえることができる
すなわち、それが「人類の歴史」である、と定義している。
この本の整理能力の高さをしたたかに象徴していて
要約の天才ぶりを見せつけてくれる。

人類のその繁栄と衰退の軌跡を秋田さんの本で
俯瞰して眺めてみると

繁栄していた文明が行き詰って硬直化し
周辺で虐げられてきた勢力が実力をつけ賢さを引き継ぎつつ
新しい英知を獲得して繁栄しその英知をさらに先に進める
ということを繰り返していることがわかる。
端的に言えば
下剋上であって、栄枯盛衰、諸行無常の響きあり

なのだけど、
不思議に思うのは滅びた文明はなぜ復活してこないのか?
文明の中心が元の位置に戻る前例がほぼないのはなぜか?
その答えも、実はこの本からぼんやりと浮かび上がってくる。
整理や要約の凄みがこの本の目的ではない。
本来の目的は人類の歩んだ一本の道を眺め
考えてみることだ。
そこから、現在の世界のニュースや
自分のまわりの状況に照らし合わせて考えてみる。
この本の随所に「どうですか?」「どう思いますか?」
という読者への問いかけの文章が見られることからも
一緒に考えてみませんか?という著者の思いが伝わってくる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「お前たち人類が独自に発見し
築いたと思っている組織や仕組みも

我ら虫類がすでに獲得していることに
最近気がついてきたらしいな

まだまだ我々虫類のことを解明できないのは
そこまで人類が追い付いていないということだ。」

と、繭の象徴する魂のようなものがまた語りかけてくる。

「もしも、人類が謙虚に我々に学ぶならば
人類は何億年の繁栄を約束されるだろう。
しかし、何でも知った気になって
ただの虫けらと思って足で踏みつぶすような

愚かな感覚で接し
今が世を楽しむばかりに暮らすなら

我らが1種滅びるごとに、何億年がつまった英知が
ひとつづつ失われ

人類の歴史はどんどん短くなるだろうよ」

「何億年も栄えた恐竜の方がうまくやったし
地球的に美しかったぜ」と。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そうだろうと思う。
灯がともる最古の「文明」で
せいぜい5~6000年前でしかない。
人類という種族が誕生したとされるのも、数万年前のことだ。
虫たちには、人間を「未熟」と断言する資格がある。

人類は地上で自分が一番手だと思っているのかもしれない。
けれども、人類は、
木や花や魚や虫や鳥よりず~~っと遥か最近に出現していて

夜に文明の火を灯してまだたった1万年未満なのだということを
よく、覚えておかなくてはならない。
その短い人類の歴史の中
「総合力」で2番手、3番手の文明や国が
1番手に挑んで勝った歴史は
人類史にはまだない、
と秋田さんの本にある。
しっかり刻み込んでおくべきだろう。

もしかしたら宇宙から見た地球の文明の灯とは
人類の傲慢さのバロメーターでもあるのかもしれない。
真っ暗な夜の大地の側の面積の方がずっと大きいのだ。
そちら側が「地球史」では本当の1番手をあらわしていて
正道である、という見方もできる。

人類がしくじって絶滅したとて
このウスタビガにとっては
繭の中の夢の出来事であって
人類の居なくなった
今よりずっと青く美しい空や
月や星が煌々と輝く美しい夜を
大きな美しい蛾となって
今と変わらず飛び回るに違いない。

もしも、違う未来があるならば
あれ?大きな繭から出てきたのは
どことなく人類に似ているような…。

2023.12.22. 野生の消滅

2023年は今までの大きな流れが終わり
新しい流れに変わった年だと
巷で言われているように、
そんな年だったのだろうと感じた。
世間で話題になった変化はごもっともとして、
自分の場合、
周囲の亡くなった人々でより強く感じるのだ。
60代から80代まで
ビックリするほど多くの知人や関係者が亡くなった。
時代を牽引してきたアイコンのような人も多く亡くなった。
もはや一人一人への追悼文を残すのも難しい。
心の内に彫り込むような文字で刻み込もうと思う。

今年亡くなった人の多くが戦後の混乱期を生きた人々であり
戦災からの復興と右肩上がりの新日本を作り上げた人だったと思う。
私のような昭和40年代生まれは、
その恩恵を全身に浴びて育った苦労知らずの世代。
その世代と自分たちの世代で決定的に違うところがあるとすれば
「飢え」の体験の有無だと思う。
もちろん、今だって「飢え」の中に居る人が
多く存在していることは承知だけど
現在の日本では、そこら中に食べ物がある中での飢えであって
上の世代の飢えは、どこを探しても食べ物がない、中での飢えだ。
暑さ寒さは3日もすれば忘れてしまうものだが
本当の「飢え」というものは
忘れられない恐怖を心の芯に植え付けるものらしい。

ひもじさを自分の子供達に味合わせたくない、
という思いは強く、がむしゃらに働いて
そういう世の中を実現し、
飽食の時代と言われるような中で
私達下の世代は育った。

「戦後は終わった」と言った総理が居たが
中学生の時の友達のお母さんは
空襲で親と離れ離れになったまま
戦災孤児として一人で生き延び
戦後十何年後、親子の再開を果たすものの
親から縁を切られてしまうという
壮絶な体験の持ち主だった。
そういう体験者が生きているうちは、
少なくとも、戦後は終わっていないはずだ。

その中学の友達の家が帰宅時のたまり場になっていて
部活帰りに立ち寄ると必ず手製の大盛りチャーハンを
ごちそうしてくれた。
そのチャーハンの具は、米粒と同じくらいに小さく刻まれた
色とりどりの野菜で、塩、コショウ、味の素が調味料だった。
それがなんとも美味しかった。

野菜の細かいみじん切りは
捨てるとこなどないほど使い切る知恵であることなのだと
その後、自分が料理するようになって気が付き、
レシピにも、料理の振る舞い方にも壮絶な生い立ちがチラチラして
せつなくなった。
その頃たむろしていた友人たちは、夕食前に一食増えているのだから
どんどん太っていったのであった。
もちろん、その家の子はもともとコロコロと太っていた。
そんな子供達をみて、
そのお母さんは心から安心していたのだろうと思う。
きちんと、御馳走さま、伝えられていたかな。。。

親世代の疎開の話というのは良く耳にしてきた。
戦争末期、都会の子供達を空襲から守るために
子供達を学校や地域単位で田舎に集団で国が強制疎開させた。
親世代はまだその体験者だ。
その田舎の農村でひどいめにあった体験から、
疎開した親の世代は農家に対してあまり良い印象を持っていない。
いや、控えめに言って、非常に悪い。

しかし、疎開を受け入れた側の農家の話というのはあまり聞かない。
この年になって、受け入れた側の話をはじめて聞いた。
(東京近郊の、当時、農業と漁業のある村で、地域によってその状況は違う。)
まず、農村の貧しさが想像以上で、まるで江戸時代のようなのだ。
疎開の子達が来て、その人は牛小屋の藁に寝起きしたという。
そして食うにやっとのところに人口が増えて更にひもじさが増したという。
(当時は米など普段はたべれずハレの日だけ、食事は雑炊、が農家の日常)
塩が不足し、海から海水を桶でくみ上げ、山の方に運んで煮て塩を作る
ということまでやったという。(塩を勝手に作ると捕まるので山中で密造した)

当然、今で言う、格差問題が瞬時に勃発した。
現在と違うのは、貧しい方に富める者が寄りかかる、という構造の格差問題。
何が起きたか、想像に難くない。

そういう体験が、ほんの親の世代にあるのだ。
戦後は本当にまるで終わってはいない。

戦前の帝国主義と180度価値観の変わった民主主義の政府を
墨で真っ黒に塗りつぶした教科書で信じることができたのか?
生存の危機のような飢餓を自力でなんとか生き延びて、
権力の言うことなど疑ってかかってたきただろうし、抵抗もした。
親世代の多くの人々を見ていると、
身体の内なる野生、に響く声を聞き分けて
信じているような節がある。
それをよりどころに、
新人類と呼ばれ少し冷めた理性の我々世代には理解不能な
「なぜ?」で立ちはだかることもあった。

そういうものが、今年、多く失われたように感じる。
彼等の持っている野生味。
生存の危機を見過ごせないような本能で包みこむような優しさ。
それが生んだ文化や生活や心の機微も、その流れを失っていくように感じる。
英語で表記するDRYな時代の潮流は大きくなる。
記憶、情報の取集、編集、判断、選択、決断も責任さえAIに寄りかかり
情がカサカサに乾いた規格品のような孤人が構成する世界が怖いといえば怖い。
だけどそこが地獄なのか、といえば、違うのかもしれない。
どうしようもない居心地の悪さを感じながら

私達の上の世代が持っていた情や野性味を
何度も何度も懐かしく思い出し生きつづけることは確かだろう。

2024年が良い年である兆しはないけれど
この時代のこの時を本気の一期一会で味わって生き抜くこと、
それが一番かけがえのないことかも、と思って、いる。
今後、同じような一年がめぐってくるということは
今まで以上に無いのかもしれないから。

12月22日初氷の朝に。
メリークリスマス。


2023.11.08
. 左右の目

80日以上続いた猛暑日(気温が35度以上になる日)が
秋のお彼岸を境にピタリと止んで秋の気温になった。
暑さ寒さも彼岸まで、という格言は
こんな異常気象が常態化してしまった2023年にも
かろうじて生きているようだ。
今年の夏は、北海道で熱中症、というほどで
ある特定の地域だけの異常を超えて列島全体が猛暑に苦しんだ。
なんと、庭の雑草が暑さと日照りに負けて生い茂らなかった。
夏の虫たちは影を潜め、蚊にさえほとんど刺されなかった。
虫嫌いの人々にはありがたかっただろうが
自然相手の仕事の人々は農家をはじめ非常に厳しかったに違いない。
人間だけでなく、野生の動物たちは
飢饉レベルの飢餓に苦しんでいるはずだ。
秋になり熊被害が毎日のように報道されるけど
そういうことなのだと思う。
値上がりしてもスーパーに毎日食材が並ぶことが
奇跡なのだと、頭の隅に置いておかなくてはならない。

しかし、まぁ、なんとか、生きて、無事、秋の中に居る。
今年もクーラー無しで夏を越せた。
秋の中、あんなに苦しんだ猛暑の感覚が遠のいて思い出せない。

「暑い」以外の感情が溶けて消え失せ、
PCに向かうのも、文章を考える気にもならなかった2023夏。
でもがんばって暑い夏の記憶を思い出し、
とどめておかないと。。。暑さの記憶と共に忘れてしまう。

ではゾンビじみた感覚で猛暑の日々を送っていたのか、というと
そういうわけではなく、
全知識、知恵、体力、精神力の総動員、この夏で倒れても悔いなし、といった
甲子園球児の木工編のような熱すぎる戦闘モードの毎日を送っていた。
年配の知り合いが「50代は老人の青春期」と言っていたが
まさにそんな日々だった。
その仕事の発注側のスタッフで
作業のところどころを助っ人として助けていただいたのが
20代の社会人1,2年目くらいの若者だったので
より老人の青春感が際立った。

若者とは、どんな時代であっても、
何の根拠もない自信や、永遠に広がっていると思われる可能性に
身をゆだねて毎日を送れるのだな、と感じた。
青春の若者の抱える漠たる不安の質の中には
まだまだ沢山の希望のタネが植わっている。
さすがに、そんな感覚は知らぬ間に置き忘れてしまっていて、
自分が青年の頃いだいた疑問、大人になる、ってどういうことだろう?
の答えを言葉ではなく身をもってしみじみ知った気がした。
あの頃の先輩方の眼差しに今の自分が重なる。

加齢と共に「失う」やるせなさ、と同時に
自然と育って身に付いた、良いものも感じた。
その一つが

モノに向き合う目。

ものを見る目にもレベルがあると思う。
20代の頃の自分と50代の自分では
スポーツで例えるとプロとアマチュアくらいに世界の見え方が違う。
さらに上には、国内大会レベル、オリンピックレベルとか
そういう違いもやはりある。(どちらにも及ばないが)
天才的な素質で凄いレベルの目をはじめから持っている人もいるし
仕事上の経験を積み上げて作られた
私のような凡人タイプの目もある。
なので、年を重ねてから、
どんな職種であろうと年季を重ねたプロの目には一目置くようになった。
職種別に特殊な超能力のような目を持っているものだ。

自分が経験から積み上げた目の種類は大きく分けると
右目は職人的で、左目は「美」に向きあう目と分けられると思う。

職人的な右目は
素材に対する知識や感覚、
道具の選び方、使い方、技術、もろもろの作業効率や段取りは当然として
それらが総合的にどういう結果に結びつくかの「像」が
ある程度パッキリと見えるようになってきている目。
最善の結果に最短距離でコミットする道筋を見る。
これはいわゆる経験がものをいう世界。

左目の「美」と向かい合う目は
新鮮な「美」の発見を追い求め続ける目。
それもある程度成長するものらしい。
成長といっても、積み重なる感じの種類ではなく
常に既成概念にとらわれない
まっさらな目でいることの
純度の高さを恒常的に更新させるような類の成長。

「美」を体験する「美」と
作り出す「美」に大きく分けると
体験するのは、美術品や音楽、様々なパフォーマンスを鑑賞することなどなど。
これは、説明不要の美との会合。

問題は作りだす方。

この世にない新しい美、を作り出すことにおいては
鑑賞する快楽とはまったく違う、ある種の苦痛を伴うと思う。
この世に存在しない価値観、なのだから
着地点のはっきりとした像(映像ということではない、概念なども含まれる)が
見えない。
むろん、お手軽に検索してネット上にあるようなら
新しい美でもなんでもない。
ぼんやりとした向こう側にあるような「予感」のような勘だけがあって
はじめて創発して着手するのだけれど
手や身体、精神を動かしていればそれに到達できるのかといえば
そうとはかぎらない。

「あちらから来るのに出会う」のを待つ、
といった感覚を伴うからだ。
もしも、それが個人的な表現であるならば
精神や情緒の新しい次元の探求と一致して
いくらでも時間をかけられる一種のライフワークのような
側面をもちつつ並走することも可能だろうが
仕事で時間制限がある条件下では、
膨大な労力による試行錯誤によって
こちらから出会いを手繰り寄せることが必要になってくる。

背よりも高い茅に埋め尽くされて一寸先も見えない道なき道を
鉈をブンブン振り回して、ヤブ漕ぎしながら自分の勘だけを頼りに
見たことのない山の山頂を目指す。そんな感覚に近い。
または、得体のしれない未知の大陸を突き進む冒険に近い。
「怖さ」や「無能感」や「絶望」の感覚を伴うこともある。
精神が崩壊してしまうリスクもある。

幸運にも何の労力もなく閃きの速度で新しい美がやってくることもあるが、
多くの新しい美を作りだそうとしている人々は
上記のような苦悩と様々なレベルにおいて格闘していると思う。

普段、簡単に消費して流し見たり聴いて楽しんでいる
歌謡曲や放送、漫画、アニメ、ゲームなどにも
作り出す現場には、結果の表現にはおくびにも出さないが、
あらゆる階層でこの冒険と苦悩があるはずだ。

この「美」というものの厄介なところは
新しい発見とともに、古くなるという点。
(古くなるということは、価値がなくなるということではない。
価値は別の次元の話。)

画家が完成(があるのか疑問だが)とともに自分の作品に興味を失うとか
過去の作品に興味がない、とか、
描いている途中の絵を何年も放ったままにしていて、また突然描きだすとか
今では心底、あたりまえによく理解できる。
若い頃は、そこまでたどり着けていなかったから、よく理解できなかった。
恥ずかしいかぎりだが
さっさと仕上げて完成させてしまえばいいのに、
くらいに思ったこともある。
自分の枠を超えた大きな美、というものと
本気で対峙していなかったということだ。

新しい美には、更に待ち受けるであろう、最悪の苦痛がある。
生み出した新しい美というものは
新しい価値観ゆえに、理解されないことが多いこと。
そればかりか、無視される悲しみもあれば
危険視され、全否定され攻撃や排斥の対象になったりすることもある。
それは、美術史をみればわかることだろう。

さすがに、このレベルの新しい美というものは遥か遠く
生み出せないものの
向き合っている時の心意気だけはそんなにかわらない。
と、大上段に構えたところで、
幼児や、美術とは何のかかわりのない人が
ヒョイと軽々と新鮮な美を見つけたり提示したりすることもある。
そういうのが美の面白いところでもあったりする。

と、左右の目の総動員で猛暑の間中、仕事をし
体力も限界まで絞りだし、
それなりの景色を見た。
一時は歓喜もしたが、
もう結果にはもう興味がない。

ただ、木工に関しては、その後関わる事象や時間、人間によって
神の魔法のような変化を遂げる面白さがあり
古くなっても新しい美、と出会える
こともあるので経過には少し興味がある。

たまには仕事の話も残してみた。
言葉に置き換えようと思うほど、なんだかあたりまえのことを
一生懸命書いているような気がして、、、凡人感を痛感する。
こう感じてしまうところが、もう若くはない、と思う。
来年読み返してみたら、何を息巻いているのだろう、
鼻で笑ってしまうほど、恥ずかしく感じるだろう。
でも、そんな筆を走らせてしまう気持ちも含めて
2023年の夏だったのだ。

来年の自分のことより、
本日は11月なのに26℃の夏日であって、
こんな気象で、来年の気象は大丈夫なのかの方が心配だ。
庭のイロハ紅葉は色づく気配すらないままで
5本指の葉の先はカリカリに縮れてに茶色になってしまっている。
フェーンのような立冬とは思えない強い風が庭を吹き抜けてゆく。

2023.06.24. 峠のムスリム

五月雨がシトシトと降りそぼる夕方も6時がすぎた頃のこと
この東京郊外の古都鎌倉に一直線につながる古い街道を車で通ると
必ず立ち寄るコンビニがある。
ここからは、山ですよ、とでも言いたげな境界にあり
ここを過ぎれば、鎌倉時代にタイムスリップしたような
緑影の濃い峠道で、峠を越えてもしばらくは民家も店もない。
昔の人ならば草鞋の紐を結びなおすような麓茶屋いったところだろうが
その必要もない現代でも、ふと立ち寄ってしまう場所のようで
いつも沢山の車が休憩してにぎわっている。

その日も車を駐車して、フロントガラスを流れ始めた雨粒を
雨中の運転で疲れた目でぼんやりと眺めていた。
と、フロントガラスの前を
胸まで覆うような立派な髭をたくわえた

屈強な中東系の若者二人が横ぎった。
作業着姿で、ちょっと離れて駐車している土木関係の工事車両から
降りてきたようだった。
1人はコンビニに入っていった。
もう1人は、なぜかコンビニの外の犬をつないでおくフックが設置してある
隅っこの方に陣取った。
雨のあたらない庇があるので雨宿りかと思ってみていると
おもむろに、手に持っているつぶして板状にしてある段ボール箱を
そこに敷いて座った。正座で。それも、コンビニの店がある壁に向かって。
そして、土下座のように頭を下げ、立ち上がる。
何か祈りのように呟いてまた土下座、立ち上がる。
それを5,6度繰り返す。
と、コンビニで買い物を済ませて出てきたもう一人が声をかけた。
今度は交代、出てきた彼が段ボールで祈りをささげて、
先の彼が買い物に店内へと入っていった。
買い物が終わって出てくると、
連れ立って段ボールを片手に車へと戻っていった。

敬虔なムスリムだったのだろう。
その祈りの光景は心洗われるものがあった。
メッカの方角に、たまたまコンビニがあり
雨がそぼ降る中、絨毯が段ボールで
祈る者が武者のような若者であったことも
その祈りの穢れない純度を表しているように感じた。

彼等の心の中には
燦然と輝く太陽と砂漠の乾いた風が運ぶコーランの音とモスク
ミッチリ毛の生えそろった絨毯の上で過ごした数分が
あったのだろう。

祈り、とはなんだろう?

祈り、というと宗教を連想するけれど
それよりずっと昔から人間とともにあった。
音楽や芸能だって、もとをたどれば祈る行為にいきつくはずだ。
宗教が発明されるもっと前、
人智を超えた大いなる力を感じはじめた時
祈りは誕生したのだと思う。
祈り、という行為の是非と宗教は切り離して考えるべきだろう。

彼等の祈る姿が美しいと感じたのは
自分の魂の原初的な無垢な部分に同期したからだと思う。

祈ったって、何も変わらない、ということをいう人もいる。
祈ったって、打開策も利益ももたらしてくれない。
そのとおりだろう。

しかし、
祈る、ことは一段だけ階段を下りる行為、
人間なんてそんなに偉くないんだ、と
奢りを鎮め、素っ裸なひとりの人間となる原点回帰の時間、
と捉えるならば、
何かハッとして違う角度からものごとを見つめなおす
きっかけになる、といった現状打開の道が見えることもあろう。。。

さて、
エンジンをかけ、鎌倉の峠道へと向かう。
ハンドルを道路へと回しながら、
ふと、一所懸命、この峠道で鎌倉時代の武士達も
念仏を唱えたのだろうか、

と二人のムスリムの若者の残像と重なった。
雨の峠はもうすっかり暮れてしまって
枝を伸ばした樹々が黒々と空を覆い
ヘッドランプの光の輪だけが眩しい。

2023.04.17. 希望

令和5年の年始は、今思い返せば、
コロナ狂騒曲も収束の前夜といってもよいのだろう。

「素敵なものを見つめつづけましょう」
直筆で書かれた年賀状をいただいた。
だいたい同じような文面が並ぶ年賀状のはがきの中で
その言葉がなんだか啓示のように胸に刺さって
心に牡丹の花がふっくらとほころんだような心持ちになった。
気持ち改まる気持ちの良い正月だった。
きっと、普段なら何気なく聞き流してしまいそうな文言だと思う。
誰がどんなタイミングで、どんな手段で
ということはとても大事なんだと思う。

それをきっかけに、
希望を作り出さなくっちゃ、と思った。

世界中が、いろいろ酷いこと続き、ということもある。
コロナで止まっていたように見えていた世界は
止まっていたのではなく、壊す、を
静かに進めていて、
収束後の世界を見渡した時、
その破壊の規模の大きさと
傷の深さに驚愕したこともある。
さらには、昭和後半世代の時代の文化の行方を指し示し
才能と行動と勇気をもって未開の地を開拓して
豊かな実りをもたらした文化の英雄たちの
訃報が相次いだことも、大きい。

プロジェクションマッピングが消えた世界は
茫漠とした、ポカンとした空間が広がっているばかり。
そんな感覚に襲われたのは、ネットに押しやられて
雑誌業界が斜陽になりはじめ
業界を牽引してきた雑誌の名編集長や名編集者が
次々に引退していった10年前から味わっている。

どっちに進んだらよいのだろうか、何を目指せばよいのだろうか。
私達が目指した『豊かさ』って何だったんだろうか?
そういった大きな世界の創造を、英雄たちにすっかり委ね
甘えていたことに気がついた。
巨星は消え、砂子のような星々である私達は残された。
私達ができることは何だろうか?
先行きの見えない暗闇に久々に出会って迷い歩いた。
そこに、ひとひらの年賀状が光の矢となって舞い込んだのだった。

自分が美しい、素敵だな、って思っていた世界を
前に進めることだとハッと目が開いた。
自分たちが普遍的で素晴らしいと思った世界を
あきらめないこと。
たとえ、それが前時代的だとみられても、だ。
後ろを向いて、前に進む。
たとえ閉じゆく文化や感性だとしても
そのクローザーとしてマウンドに立つ。
それが、私達が享受した文化や感性への
正しい奉仕ではなかろうか、と。

そして、
人に会いに行くことにした。
ずっと交流のあった素敵な人達に会いに行ってみようと。
不思議なことにそう思う人は年賀状の束の中に居た。
フッと「年賀情」というくだらない駄洒落が浮かんで消えた。
情緒、情趣、情景、情報、、、といった中の「情」は
なくならないまでも、非常に単純化され、形骸化され、薄まった。
情も昭和の世代が素敵だと感じ
大切にしようと心に育んできたことだった。
消えゆく文化である年賀状と共に「情」も一緒に消えつつある。
会いたい人達を年賀状の束からピックアップして並べてみた。
眺めているだけで心が温かくなる。

訪ね歩いてみると、
素敵な人々は素敵なまま、熟成の感すらあって
そこに居られた。
地に根をしっかりはった揺るがないどっしりとした樹木のように。
そこには若葉からこぼれる幾筋もの希望の木洩れ日が降り注いでいた。
気持ちの良いそよ風も吹いていた。

その樹の下でまどろんで夢をみた。
それは、私達世代が描いてきた豊かさに溢れた夢だった。
眺めあげた樹の枝に美しい花が一つ二つと咲き始めて
やがてひらひらと花びらが光とともに降り注いできた。

2022.12.10. 見上げる

不思議なことに車からみかける人々が一様に夜空を見上げていた。
晩秋の夜ながら寒くもなく空は澄み渡っている。
普段はスマホを眺めながら俯いて歩いている若者から
いつもなら送り迎えに忙しそうな3人乗りママチャリを
かっ飛ばしているママさんたちも自転車の脇で
なぜ、こんな時間に?と思われる小学生の集団や
買い物のマイバック片手のお年寄りまで
同じ方向の夜空を眺めている。
SF映画で巨大UFOが出現するシーンのようだ。
と、AMカーラジオから今日は月食です、というアナウンサーの声が流れてきた。
そうか、すっかり忘れてしまっていたなぁ、皆、月を眺めているのかぁ。
そんな人々をまるで自分の瞳が映画のカメラになって
なめらかに移動しながら撮影しているような不思議な気分で眺めた。
車のエンジン音がカタカタと
フィルムをまわす映写機の音のように聞こえている。

思えば、こんな多くの人々が同時に月を見上げているのは
いつぶりなんだろうか?月の女神も恥ずかしかろう。

花火大会でさえコロナで中止の数年
皆が空のひとところを眺めて
顔の表情はなんだかニコニコしていて。

帰宅すると、
路地の近所の住人たちも各々の門の前に出て月を眺めていて
お隣の子供のいないご年配の夫婦と並んで月を眺めた。

普段は挨拶をしたり、ちょっとしたおすそ分けをしあう程度。
あら、まだ隠れないわね、とか、キレイねぇ、などと
会話とも言えないような同じような言葉を繰り返すだけなのだけど
お互いに声の表情にウキウキしたような含みがあって
一緒に居ても、ちっとも苦痛ではなくて。
あさっての方を向いたまま訥々と話す笠智衆の映画のような
ずーと昔に世間に普通にあった人付き合いの空気感の
今ではおとぎ話のような時間がゆったりと流れた。
月も同じようにゆったりと地球の影に隠れてゆく。

欠けてゆく月を見上げながらのささやかな幸福感が
胸の内に、かえって連続した今年の不幸な出来事を思い起こさせた。

見上げるように歩いてきた時代の象徴的な人々や
影響を受けてきた人が多く亡くなったり
病気に倒れたりした。
特にデザイナーの三宅一生さんの死はショックだった。
仕事で接点を持つことはなかったけれど。
モノづくりに対するマインドにはいつも鼓舞された。
モノに対するゆるぎない「良心」の象徴だった。
この人が生きているから同時代人として頑張れる、
そういった人は誰にも一人はいるだろう。
そんな一人だった。
沢山の後継者を残した人でもあった。
才能は受け継がれ発展するだろうけれど
この時代の日本という国には
この同じようなマインドスケールの人が出てくる予感は
まったく無い。

アントニオ猪木の死もあった。
あまりにも寂しい最期ではないか。
私は特にプロレス好きでもなかったけれど
プロレスに熱狂する子達が
今のゲーマーくらいに多かった時代に育ったので
その濃すぎる時代の空気を吸って生きてきた。
ああいう人も本当に少なくなったなぁと思う。
良いとか悪いとか好き嫌いとかではなくて。

「危ぶむな、行けばわかるさ」
「元気があればなんでもできる」
単純な言葉だけど、彼が言ってくれると
何の根拠がなくてもその気になれて
やる気が沸いて、背中を押されて、
無理だと思っていたことも突破できてしまう。
そんな魔法を一気に何万人にもかけてしまう。
そんな力を備えていた。
猪木の作った時代の空気というものも
猪木という人の消滅と共に
再現する「可能性」は消えたのだ。

交友レベルや親族にも、こんな頑強な人が、とか
病気などよせつけなさそうな溌剌とした先輩方が
病に倒れ入院療養されたりした。
なんとも、寂しいような
当たり前にあった希望が突然途絶えるような
そんな絶望に似た気分が
積層された。

老いる、ということはこういうことか、
こういった環境の変化の苦しみという要素があるのだと
最近、肌身に感じて気づかされている。
その感覚を例えていえば
言葉も文化背景も理解されない外国に単身暮らすような感覚に
少しづつなってゆくような不安。
海外で日本人というだけで人懐かしく友人のようになってしまう、
そんな感覚を同世代人に感じはじめている。
「誰みたいな」という例えが伝わったり
同じツボで笑ったり泣いたり
話し言葉が似ていたり
同じ歌を口ずさめたり
同じ食べ物の思い出話でもりあがったり
そんなことでさえ、
これから希薄になっていくのではないだろうか。
ジェネレーションギャップと呼ぶには少し軽すぎる
こういった孤独感を先輩方も味わってきたのだろう。
そして、誰もがそうであるように
それをわかってあげられない若者として
自分も生きてきたのだと思う。

前に皆既月食を見上げた日をはっきりと覚えている。
月が完全に影になる寸前に我が家の猫が死んだからだ。
2011年12月10日だった。
真南にまっすぐ上がる我が家の階段の窓の小窓に月食が見えた。
私が階段を上ってゆくと必ず追い越すように猫が走り上ってきて
得意顔で階上フロアーから後から上ってくる私を見下ろすのが好きだった。
だからきっと、その勢いで月まで昇っていったのだと思った。

その月が再び隠れようとしている。

お隣さんの奥さんが
あらもう隠れるわね、あら、隠れちゃった、続きはテレビでみましょうかしらね、
と挨拶を交わして夫婦で家に入っていったので
私達も家に入った。
玄関のドアを開け
階段フロアーの上の小窓を見上げると月食は見えなかったけど
その暗がりに猫がのぞいているような気がした。
降りておいで、
10年以上前、君の居た幸福は忘れていないから。

2022.10.16. 神無月

心が停止して何もできないほどの酷暑に連日見舞われた梅雨明けの東京。
気温差が激しかったぶん、暑さに適応できずに苦しんだ今年の夏。
そんな夏も後半戦。
ラジオから甲子園のブラスバンドの応援が聞こえてきて
心停止中の心が少し動いた。

野球好きでも硬派でもなかった私が、なぜか、
白い長ラン(裾の異常に長い学ラン、暴走族の特攻服みたいな)に
白鉢巻、白い鼻緒の高下駄をはいて
甲子園野球の地方予選の応援団員としてスタンドで声を枯らしていた
高校三年生の夏。

私の出身高校は、今放送されている大河「鎌倉殿の13人」で
重要な御家人として活躍する三浦義村を代表する
三浦一族の本拠地、衣笠城址の近くにある。
初代校長は幕末の雄、吉田松陰の甥。
また、海軍の横須賀鎮守府があったことなどから
校風は自由ながら質実剛健を掲げる。
現在の高校の校歌は皆うる覚えで歌えないが
旧制中学時代の校歌は現在も応援歌として
全員が口ずさめる現役の校歌のような役割を果たしている。

<坂東武者の名を留めし>の歌いだしから
通称「坂東武者」と呼ばれ、
何か行事があるごとに親しみをこめて歌われる。
作曲者は信時潔。
(30年後、偶然お孫さんの家具を作ることになる。)

校風は剛健を掲げながらも時代は流れ流れて
武ばった時代はとっくに過去である昭和60年に
手が届こうという頃
第二次世界大戦の戦争は経験してないけれど
第二次ベビーブーム受験戦争世代の我らは
剣をペンに持ち替えた進学校ならではの線の細い生徒が多く
武道館は廃館寸前のボロ小屋で
剣道、柔道部はあったのだろうか?というくらい存在感がなかった。
妙に存在感を放っていたレスリング部は
たった一人の部員が私の中学の部活の後輩で
細っこい身体に黒縁眼鏡を拭きながら
元柔道の東京オリンピック(昭和の)代表との噂の体育教師に
体育館の外でしごかれていたから目立っていたにすぎない。
ただ、坂東武者の命、弓道だけは女子が盛り立てており
弓道場には華やかさや活気があったように記憶する。
怪我をものともしないラグビー部員が最もそれらしい男達で
野球の応援団長となった男もラグビー部の猛者であった。
といった学校に応援団などというゴリゴリにバンカラな部活が
あるわけもなく、高校野球ばかりは応援団が必要とのことで
急ごしらえのにわか応援団が毎年編成されることになっていた。

その選出方法は、その年の体育祭の3年生の各クラスの応援団長ということで
我々の年代は10クラスあったので10人の応援団員で編成された。
私達のクラス(3年間クラス替えはない)はなんとなく冷めた雰囲気のクラスで
たいがいクラスに何人か居る目立ちたがりのやんちゃな感じのクラスメイトも
居なかったので、体育祭の応援団長のなり手がなく、
シーンとじれったいよう時間だけが流れるホームルームの中
係りのような感じで私に応援団長がまわってきたのであった。
(陸上で水泳部員が応援団長なんて戦う前から終わっている)
もちろん、その際に高校野球の応援団との兼任の話など
何も知らされなかった。

寄せ集め応援団の初顔合わせは
[俺がここにいることは場違いなのだ]感を
全員が発してい、なんとも照れくさいような空気の中
前年の経験者である卒業生がワザワザ指導にやってきて放課後行われた。

3年生にもなるとだいたい見知ってはいて
同じ部活の仲間どうしも何組か居るのでそれなりに会話もある。
もめることもなく、先に書いたラグビー部の主将が推挙され団長になった。
副団長はよく覚えていない。

応援歌「坂東武者」には振り付けがある。
空手の型のような正拳突きを多用するような振り付けで
体育祭の各カラー(3学年縦割りで一つのカラーを形成する)
ごとにバージョンのような微妙な違いがあり、
それが脈々と各カラーに伝承されている。
甲子園野球の応援団にも微妙に違う振り付けがあり
それを卒業生が指導してくれた。

「自我を捨てる快楽」これが応援団だ、と気づくのに時間はかからなかった。
大声を出すことの解放感。
上意下達の徹底による、自己の認知→判断→行動からの解放感。
なんとなく恐れられられ、特別視されることによる
何かしらの特権を得たかのような自己肯定感。
集団帰属の安心感。
ひたすらの応援が結果に結びついた時の高揚感と恍惚。
それがもたらす使命感。

当時はそれほど客観視することも感じることもできなかったが、

戦争へと突入してゆくファシズムの国家において
大多数の人を突き動かす、ソレ、なのだと思う。
特に少年少女などで親衛隊を形成するような団体や体制によくみられる。
また、これは、主だった宗教の祈りに似た構図だとも思う。
別に取り立てて秀でたこともないような子供が
単純な目標と使命と権力を持たされ、
絶対的な神のようなモノのために働き
達成して褒められ認めらることに快楽を得て
のめりこんでゆくような。。。

ところでこんなことを神無月に書いているのは
そんなことを書きたかったからではないのだ。

甲子園がまるで出雲のようだなぁと感じたからだ。

甲子園に集まる球児は各地方で勝ち抜いてくる。
地元の最強の神を背負ってくる、とも言い換えられる。
代表の宣誓は大国主の命への誓いであって
各学校の校歌は、各神々の秘す祝詞と解釈しても良いだろう。
丸刈りの球児に清廉潔白が課されるのは巫女であるからで
負けたチームが持ち帰る甲子園の土は
なんだか「産土」を持ち帰るのを想像させる。
各地の神々が持てる全力で戦うことで
綱が撚られて一つの大横綱が完成し
新しい大いなる力となって次の季節に備える。
次は春の種まきの季節に、冬で弱まった霊力を強めるために
行われるのだ。
夏の甲子園は学校行事の関係で夏休みを利用しているが
本来秋の収穫期に行いたい。

甲子園で野球が行われている間、なんとなく閑散とした地方がある。
これが現代の神無月。

今年、はじめて東北勢が優勝を手にした。
なんだろうか、
奈良平安からしいたげられていた荒ぶる東北の神々が
令和の時代になってやっと大和の神々を超越して
頂点に立ったともとれる。

蔦の絡まる古びたコロシアムで
ブラスバンドの応援に、たなびく旗に、バットがボールを打ち返す金属音に
古代の日本の神々が息吹を吹き返えす。
古代の神の熱が甲子園に大きな柱となって突きあがる。


あの高校三年の夏の恍惚は、
神事に参加した巫女としての恍惚であった、と
今になって気づいたのであった。

十月、神無月。
夏草は枯れ、折れ、満天には虫の声が満ちている。
小さな虫たちの絶唱に、何かを、無心に叫んでいた友、友、友、
の横顔がふっと浮かんだりする。
彼らも、捧げた魂のかけらが、まだ、少し残っていて
ブラスバンドの演奏に熱を帯びたりするのだろうか。

2022.06.24. 鳥好き(ガラス屋さん追悼)

東京多摩地方は立川北部の2022年のツバメの飛来確認は5月2日。
カッコウの初鳴きは5月20日だった。
例年より2週間以上遅い。

3月4月は急激に暑くなる日が何日かあったので
ああ、今年もまた、このまま春がなくて初夏になってしまうのか、
と思っていたら、春と呼ぶのもはばかられるような寒い日が続いた。
植物の混乱は、もはや毎年のこととしても
今年は昆虫の数が極端に少ない。
空を飛ぶ小さな羽虫のようなものから
地を這う甲虫の類、樹上の毛虫の類、
蟻でさえ見かけるようになったのは5月に入ってからだった。
ここ多摩で昆虫を主食にする鳥たちにとっては
飢饉に近い一大事だったにちがいない。
5月も末になっても気温は安定せず雨が続き極端に寒い日もまだある。
そんな中、ほとんどの種類の鳥たちは子育ての真っ最中で
耳を澄ませば、
そこら中から鳥の子達が親鳥に餌をせがむ声が聞こえてくる。
今年の親鳥は餌の確保が大変なのではなかろうか、
巣立った小鳥たちも餌の確保が厳しいだろうなぁと、
そんな心配をしながら声に耳を傾けている。

「鳥好き」なんだろうと思う。
鳥の鳴き声、姿、名前は、よほど珍しい鳥でもないかぎり一致しているし
生息域、季節のローテーションもだいたい把握している。
しかし、オタクと呼べるほどの熱量はない。
鳥も鉄道オタク同様に、
撮り、録りに凝っている人、
珍しい鳥を見つけることに執念を燃やしている人もいる。
鉄オタと違うところは
「狩り」というジャンルの人々がいることくらいだろうか。
私の場合、生活環境に居る鳥たちの動向を眺めているのが好き、
程度のものだ。
もっとも、青年の頃は探鳥会に行ったりと
もっと入れ込んでいたのだけれど。。。

鳥好きは、ざっくりと飼い鳥派と野鳥派に分けられる。
私は鳥も飼っていたことがあるが、完全な野鳥派。
あたりまえすぎるけれど
野鳥の方が「鳥の顔」をしている。
飼い鳥はペットという顔が強い。
依存しあっているのに、
隙あらば籠から逃げ出したがっている「気」が
なんだかつらい。
自由に飛び回っている野鳥の姿を眺めている方が
ずっと心が軽やかで楽しい。

周りに野鳥派の鳥好きは非常に少ない。
仕事仲間でも2人だけだった。
だった、というのは1人はコロナ中に亡くなったからだ。
町場のガラス屋さんだった。
窓ガラスを扱う個人商店のガラス屋さんだ。
一度、そのおじさんについて書いたことがある。
今回、鳥好きについて書こうと思ったのは追悼として。

野鳥好きの会話というのは盛り上がらない。
どこそこで何時頃、何の鳥を見た、
とか、どこそこに何の鳥が営巣していて見られるとか、
そういった「情報」のやり取りに終始することが多いからだ。
鳥と一緒に居合わせ佇んでいることが
幸せやドキドキなのだから
そういう会話になってしまうのはしかたがない。

ガラス屋さんとの会話もそういうものだった。
そのガラス屋さんのおじさんは、20歳くらい年上だったのだと思う。
亡くなった通知の葉書に年齢がなかったので
いったいどれくらい年齢が離れていたのか正確にはわからない。
私がまだ30代の頃に額縁にガラスを入れてもらったのが縁で
年に1回とか2回とか、2年くらい会わない時もあった。
出会った当時はすでに白髪頭だったが
まだまだ屈強な職人の体躯で目も手もしっかりしていた。
きっと50代だったのだろう。

娘さんが結婚した時には
自作の鏡を送りたいと、縁の部分を注文してくれたり
小さな額などのガラス一枚でも嫌がらずに
いつも大きな板ガラスから切り分け
だけど破格に安くしてくれたり
若造の私に本当に良くしてくれた。

昔の町場のガラス職人の話もよくしてくれた。
窓ガラスが現在のように強化ガラスや2重になって
サッシごと工場から運ばれてくる前は
窓ガラスは良く割れた。
割れる度にガラス屋さんを呼んで
窓の寸法にあわせて新しいガラスを入れてもらっていた。
学校などの公共施設から個人住宅、新築も加えて、
ガラス屋さんは大忙しだったらしい。
「昔は職人なんて荒っぽいもので、
今みたいに現場の住所なんていちいちおせえないんだよ、
何丁目のこの辺、みたいので、行ってこい、なんて親方に言われてさ
飛び出していって、見つけるまで帰れないわけだから、
まいったよ、小僧の頃はそんな時代だったよ。」
などと、昔話を懐かしそうに目を細めて話してくれた。

そんなおじさんがポツポツと鳥の話をするようになったのは
10年くらい経ってからだったろうか。
最初は、昨日、庭にハヤブサが飛び込んできた、という話だった。
民家の壁が迫る日陰がちな小さな庭が
6畳ほどのガラスの加工場から見える。
そこに設置してある小鳥用の餌台に来ているメジロをめがけて
ハヤブサが急降下して襲いかかった、というのだ。
にわかには信じられない白昼夢のような話。
そこから、お互いに鳥の話ができることがわかった。
どうやら、息子さんが野鳥好きで探鳥に同行するようになったらしい。
時々、ハンディーのビデオで撮影した鳥の動画や
デジカメの画像も見せてくれるようになった。
公園のパンフをみながら、ここにこの鳥が居た、とか
見に行ったけどダメだったなどとレクチャーしてから
公園のパンフをくれたりした。

今思えば、町のガラス屋という職種じたいが
どんどん暇になっていった頃に重なったのではないかと思う。
規格品を工場に発注してとりつけに行くだけの仕事が増えた、とか
昔馴染みのお客さんが亡くなったとか
今はガラスが割れなくなったから、とかよく聞くようになった。

ガラス屋さんが来てくれて助かったわ、と
安心した人々の顔に迎えられ、
あたり前に必要とされ、
自分の技術や仕事に少し誇り高い気持ちを持って送る日々。
それが、少しづつ
気がつかないほど少しづつ変わってゆき
技術革新で割れないガラスが登場し
工場でサッシごと作りこむ規格品ができて
流通革命はインターネットでガラス屋さんを通さなくても
ガラスを買えるようにしてしまった。。。
今思えば、
私が持ち込む小さな額縁用のガラス1枚を切り出す仕事で
かつての人に請われた時代を懐かしんでいたのかもしれない。
だから、あんなによくしてくれたのかも、と。

額縁の注文というのは稀で、
2年ほどガラス屋さんから遠ざかっていた時期があった。
久々に額にガラスを入れてもらおうと伺ったら
おじさんは少し痩せていらした。
遠ざかっていた時期に膀胱癌を患って手術入院していたという。
その数年後も、
他の癌から退院したタイミングで訪れたことがあった。
少しガラス代が高くなったなぁと思った。
そしていつものように鳥の画像でも見ていてくれい、と
ハンディのムービーを渡され、
領収書を書きにおじさんは店の奥に消えた。
再生ボタンを押すと水辺の公園だった。
おや、と思った。
レンズが追っているのは鳥ではなかった。
あきらかに奥様を追っている。
東屋からでてくる奥さんは撮られていることに気づいていない。
しばらくしてムービーは暗転して終わった。
何気ないシーンなのだけれど
奥様はさりげなく美しく、
カメラの眼差しは愛しさにあふれていた。
胸が熱くなって涙がでそうになった。

それからしばらくして、閉店のはがきが届いた。
これから鳥三昧の日々を送ることや
ガラスで困ったら他店を紹介するから
など、手書きの文章が添えられていた。
そしてコロナ中に喪中のはがきが届いた。

ガラス屋さんがなくなっても、かわらず鳥を眺めつづけている。

こんなことがあった。
自宅の近くでのこと
ありとあらゆる種類の鳥たちが警戒音をだして
そこらじゅうひっくり返したような
大騒ぎしている現場に出会った。
天変地異でもあるのか、と恐ろしくなったが
空をみれば一羽の大きな鳥が電柱の先端にとまっているのだ。
オオタカだ。まだ幼鳥と思われる。
トンビは実家で普通に見かけるが、
タカを見たのははじめて。
そういえばおじさんが、
多摩川にかかる橋ゲタに営巣していて撮影スポットがあると
言っていたのを思いだしたので
我が家の方にも遠征したきたのかもしれないと思った。
オオタカは最近都会にも適応しはじめているとも聞く。
逃げ惑う小鳥たち、
カラスが3羽果敢にも攻撃をしかけている。
戸惑うタカはゆっくりと翼を広げ飛び去ったが
カラスはしつこく追いかけていった。
その時、タカの忌み嫌われっぷりと孤独に同情したものだが
今は少し違う感情もある。
様々な種類の鳥たちが生態系のバランスをとって暮らしている。
タカの出現は、宇宙船から肉食の宇宙人が降臨したようなものだ。
その感覚は、鳥も人も町についても同じではないかと感じるからだ。

こんな光景にも出会った。
工房の前に広がる草原は、ヒバリの格好の営巣地だ。
ヒバリは丈の低い草原の草の茂みに巣を作る。
そのヒバリの巣を狙ってだろうか、
ハヤブサ(チョウゲンボウと思われる)が
地面から2mくらいのところで
ホバリングをして止まっていて、
不意に、草原へと急降下で突っ込んでいくのを見た。
そこは少し盛り土をしたような丘になっていて
死角の方にハヤブサが飛び去ったのか
しばらく待っていても飛び立つハヤブサを目にすることはできなかった。
何事もおこらなかったような静かな草原に
ただ太陽の光りがサンサンと降り注ぐばかり。
本当に一瞬の白昼夢をみたようだった。
ガラス屋さんの小さな庭にもハヤブサは現れたのだろう、と
おじさんの話を思いだし、
当時、ほんの少しもたげた疑念を心の中でおじさんに謝った。

ツバメの話もしよう。
益鳥、害鳥という区分がある。行政には。
農作物を荒らすのが害鳥、
農作物の害虫などを食べて農作物に益をもたらす鳥が益鳥、
という農業中心の区分のようだ。
都市化が進み、農業に農薬が普通になってしまった昨今、
益鳥、という概念は人々の意識からすっかり薄らいでしまったようで
害ばかりがクローズアップされることになってきた。
かつての益鳥もマンションや家屋にただフン害や騒音をもたらす
厄介な鳥として認識されるようになってしまった。
ツバメは益鳥から厄介者として排除されつつある代表的な鳥のようだ。
そこら中でみられたツバメの巣はどんどん減って
去年、近所の商店や人家、マンションのエントランスに
みられたツバメの巣は2つのみ、
そして今年はとうとう0になってしまった。
どれも人為的に壊され取り除かれ防止されている。
工房の前を飛び交うツバメは6羽で
それはどこかの1つの巣から巣立った親子と思われる。
日本野鳥の会はそういった傾向に警笛を鳴らしている。

現在叫ばれる「共生」とか「多様性」は、
人間のコントロール下での、という注釈が入る。
人間の引いた境界線を平気で越境してくるものに対して
異常なほどに潔癖、排他的で
たとえ許容しても、
何か不自然で人間中心主義の歪んだ理屈が伴う。
猫や虫に対する態度もそうだが、
鳥もその対象になりつつある。
責任の所在のない自然の生き物が
当てどもなくうろつくことが
無性に許せないらしい。
逆の感情である小動物への優しさの感情の一種、
かわいそう、の「暴走」も
自然を破壊する危険を含むものだと感じる。

大事なことは、正しく知ることだろう。
まず、じっくりと観察することからはじめてみる。
そうすると、得体のしれなさ、からくる気味悪さや恐怖感が
なくなってくる。(あるいは、ぬいぐるみ的な可愛いさも)
そして、自分との違いよりも
生物としての共通点というものが見えてくる。
そうすれば、もう、相手を一個の生き物として認識できるはずだ。
さらに、科学的に歴史的にも調べてみよう。
その奥の、郷土の生活との関係、文学や詩なども調べられたら
「尊厳」のような感情が生まれることもあるかもしれない。
きっと距離感や付き合い方が変わるはず。

昔、野良猫が普通にそこらに居た頃、
猫は春と秋に5匹くらいづつ子供を産んだ。
1年で10匹前後の子だが、その中で生き残るのはせいぜい1匹か2匹。
親の寿命も数年で今のように10年以上長生きする猫は稀だった。
一匹の雌にたいして雄は一匹とは限らず
一回の出産で複数の雄の子が混じる。
疫病が流行っても多産で多様な遺伝子を残すことで
疫病に耐性を持った種を残せる確率が高く保てる。
それで、猫という種の数が適正に保たれていた。
野生で生きるということはそういうことだった。

それは人間も同じで、死亡率の高い国は今でも多産だ。
医療の発展のおかげで死亡率が下がり、
親が一生に1人だけ子を産んでも
その子が無事成人まで育つことが
あたりまえである世界が実現した。
今まで地球上にはなかった奇跡の世界といえる。
奇跡を言い換えれば、異常とも言えるだろう。
そんな奇跡とも異常ともとれる世界が育んだ
感性や感情、論理を
野生動物にあてはめて良いのか?
それは、普遍的なことなのか?
よくよく考えてみる必要がある
と思ってしまうのだ。

ツバメなんていなくたって人間は生活はできる。
そう言う人もいる。
しかし、ツバメについて人間がどれほど研究理解できているか、
まだまだ謎だらけなのだ。
それは、そこらで普通に見かける馴染みの虫や動物たちにも言える。
もしかしたら、それらの生物たちの能力や生態が
人間の世界に凄い薬や道具の発明や
新しく未来を拓く社会変化をもたらす可能性は否定できない。
すべての生物が「益」をもたらす可能性があるということだ。
そういった損得めいた観点からも、一つの種が滅んでしまうことは
おおきな可能性の損失だろうと思う。

ツバメは渡り鳥。
春に日本に飛来して子育てをして
秋口には東南アジア方面に渡ってゆく。
昔の人は、渡りというものを知らなかったので
ツバメは秋になると泥の中に潜って冬眠し
春に出てくるのだと考えたようだ。
ツバメは巣を作る時によく泥をついばんでいるので
そんな風に考えたのかもしれない。

東南アジアへ渡るといっても一羽一羽別々に帰っていくわけではない。
渡りの前の数日間、塒(ねぐら)とよばれる大集団を形成して
集団で渡ってゆく。
この辺だと多摩川の川筋がその塒で、
お盆を過ぎると上流の日野のあたりから下流は羽田の方まで
大きな塒がいくつも形成される。
きっと川筋は餌が豊富なので鋭気を養うのに持ってこいなのだろう。

さあ、今飛立つぞ、と誰が決めるのだろうか、
大集団が一斉に飛び立つ。
羽田からの飛行機がジェット気流に乗るように
立川の上空の気流に乗る。
飛行機よりもずっと大きな一羽のツバメとなって滑空してゆく。
上空は地上よりずっと気温が低い。
富士山より高いのだから酸素だって薄い。
冷たい雲を切り裂いて
さえぎるものとてない太陽光を浴び
泥をついばんだことも忘れ
ひたすら飛んで
一羽落ち二羽落ち
タカやワシの攻撃をうけて
それでもひるまず飛んで飛ぶ
なぜ?
いつから?
恐竜の末裔である彼ら
風に微かに東南アジアの原生林の香気を嗅ぐ
やがて灰色の島影が緑に変わり
小さな町が半年前のままそこにある
あの電線だ
あの田圃
生暖かい泥の匂い
私達を見上げていたあの子達は元気だろうか

燕の小さな頭と瞳に記憶がある
日本の
ガラス屋さん、畳屋さん、八百屋さん、魚屋さん、田舎のお寺、
マンション、東京の銀行の地下駐車場、、、
その軒先の巣で眺めた人達のことを
半年先が近づくにつれて
少しづつ懐かしく思い出し
いざ日本へと旅立つ
同じ街と人があると信じて

2022.04.07. 結び目

時間を超えて何処かにつながっている空だなぁ~と
眺める空が季節ごとにないだろうか。
きっと、毎年の同じ頃、同じ気持ちで眺めている空なのだろう。
春にはそんな空が多い。
晴れた日の
印象派の絵のような
水蒸気を含んだ白を
幾重にも塗り重ねたような奥行き不明の
夕方にさしかかる少し前くらいの空。
少し花冷えしていたり
ヒバリがしきりと鳴いていたらば
本当に時空を超えて何処かへ連れ去れらそうで怖くなる。
先日、車の運転中「多摩蘭坂」付近の開けた道路を
南から北へ登っている時にそんな空に出会った。
沿道の満開の桜が空を縁取っている。
偶然、忌野清志郎の歌がカーラジオから聞こえた。
非常にあぶない。
春の空は
不安と希望が混じったような
少し憂いを帯びたような気持ちで
眺めてしまうのだが
その感情の出所を一生懸命思い出そうとするけれど
思い出せないようなもどかしさを伴っている。

きっと、入学式とか卒業式とか新生活とかに
見上げた空なのだと思うのだけれど。。。
もうずっと遠すぎて忘れてしまった感覚。
重なりすぎてわからなくなってしまった最初の色
のようなものかもしれない。

もはや自分の内にある記憶というよりも
空がかわりに記憶してくれていて
自分が見上げた空の各時代の地層に残る古代文字から
当時の感情を読み取れないでいるみたいだ。

いや待て、自分の地層だけではないのかもしれない。

最近、やっと和歌や俳句がすんなりと入ってくるようになった。
愛で方がわかってきたというか
感覚のチャンネルを合わせられるようになってきた。
誰だか忘れたけど高名な人(民族学の柳田国男だったか)が
俳句を「群の芸術」と評した。
決め事やルールを共有した群れの中だけで成立する芸術
という意味だと思うのだけど
言い得て妙だと思う。

群れの決め事がある程度がわかり、視点が定まってくると
一句から広がる世界の広がり方がまったく違う。
更に、過去に詠まれた和歌や俳句へのオマージュが
盛り込まれていることがあり、
それを知ると更に奥行きが増してゆくのだ。
それは難しいことではなくて
例えば、「寅さん」と一言あったら
帝釈天の参道の団子屋だとか、フウテン、片思い、
厄介者の親戚だとか、東京下町の言葉遣い、車寅次郎の容姿が
映画の世界として頭の中にパァ~と広がるけれど
映画の寅さんを観たことのない人からすれば
ポカンなのと同じで、
映画を観た人の群の中だけでイメージが共有される。
それが俳句や和歌の世界には強いということだ。

更に、最近は年齢を重ねる面白さが加わった。
若い頃味わった芭蕉や一茶はもっと寓話や物語的と感じたが
夢叶わぬ一茶の悶々とした気持ちから見た痩せガエルとか
弟子を引き連れての高齢での旅の途上の芭蕉の気持ちとか
この年齢にならないと実感のわかないことが加わり
絵ではなく臨場感を伴った肉体を持った世界として
想像できるようになる。
(芭蕉や一茶はそんなことを望まないかもしれないけれど)
寅さんの例で言えば、
寅さんのような失恋の経験をしたら
「寅さん」という一言に
本当の胸の痛みが加わるようになるということ。

そんな先人達の思いも、
空の地層には保存されているではないだろうか?

俳句では「憂春」という季語がある。
やっぱり、春には一言で評し難い憂いを先人達も感じとっていた。
それを和歌や句や詩にしたためた。

彼の人の 瞳にもあり 春の空

この「春の空」は春の花でも夏の短夜でも秋の月でも同じ。
一つの結び目としてそれらがある。
その結び目から伸びる細い糸の先に自分も居る。
時間を縦に伸びる大きな群れの中に居る。
ただそれを感じたいだけで時々5、7、5に思いを込めてみる。
上手い下手などどうでも良い。

過去からもきっと未来からも見つめられている
時空を超えた春の空が今暮れようとしている。

2022.03.13. 春兆すも

霜焼けができるような久しぶりの寒い冬だった。

ここ東京多摩地方は、はるか北の群馬や栃木で大雪が降ると
こちらは快晴でも、その寒気だけが北風となって流れこんでくる。
今年は栃木群馬が大雪であったようで寒気も迫力があったが、
それでも、10年以上前を振り返ると、寒さはずっとやさしい。
その頃の北風は、骨にしみいるような冷たさで
当時はまだまだ若かったけれど
モコモコのダウンジャケット、ニットの手袋にくるまりながらも
この寒さは寿命を縮めるな、と年寄りじみたことを思うほどで
冬が来るのが憂鬱であった。
なので、春が兆すのをなにより心待ちにしていた。

「春兆す 15のこころ 木も山も」

立春を過ぎると日差しが少し春めいて
武蔵野の林の樹々が
蠢動しはじめたような不思議な気配に満ちてくるのがわかる。
もちろん、芽ぶきなど何もない裸の樹々が立ち並ぶだけなのだけれど
冬の間、シーンとしていたところに気配を感じるのだ。
樹が水を吸い上げはじめる音や、
新しい樹皮や芽を作り始めた微弱な動きのようなものを
感知しているのだろうか。

林、にもなるとそのザワザワがなんとなくわかる。
その生命が呼吸しはじめる気配がすごく好きだ。

樹々からはじまって、
小さな羽虫の類が車のフロントガラスに
ヒョイと現れはじめる

小さな甲虫も道路際で見かけるようになる。
少しづつ、生命で賑やかになってゆく。
花が咲き誇り、ヒバリが天高らか歌う。
まるで、創世神話の再来のよう。
毎年地球が死から再生してゆくような錯覚。
これから、の向こう側に広がる無限の可能性。

そんな生命あふれる季節に、ウクライナで戦争が起きた。
隣の国のハンガリーに友人が居る。
ハンガリーもウクライナ同様旧ソ連圏の国。
その友人は、日本に漆の勉強に来ていて同じ先生のもとで
10年以上一緒に学んだ。
その間、旧ソ連時代のことを語ったことがあった。
その友人は今でも来日する際
けっしてロシア経由の飛行機や交通手段を使わないそうだ。
それほど、何が身にふりかかるかわからない
恐怖が染みついているという。

今回のウクライナの戦争の経過を見ていて
その感覚が少しわかったような気がする。

暴力や脅しや抑圧で人を支配したところで
心からの恭順は得られない。
ましてや身近な人を殺された恨みは消えやしない。
独裁者はそれゆえ、よりおぞましい抑圧管理に走るし
反発の恐怖におびえる。
この権力構造を人類は克服できないのだろうか。。。

犠牲になった無辜の魂よ、安らかに眠りたまえ。

うららかな春の空ではヒバリがしきりに鳴いている。
まるでイタコの口寄せのよう。
沢山の死者の声のように聞こえる。
3.11の東北の震災で亡くなった人々のようにも
ウクライナの戦争で命を落とした人々のようにも
確かには聞き取れない言葉が天から降り注いでくる。
「魂振りの 口寄せあまた 揚げ雲雀」


2021.12.23. 年末あれこれ

<冬の茶事>

初霜の降りた11月の末、日本茶の封を切った。
と書くとカッコ良いのだが、
アルミの真空パックの煎茶葉の封にハサミを入れただけだ。

先日、神楽坂を速足で歩いていると、突然、マスク越しにも感じる
ほうじ茶を焙じている甘く芳ばしい強い香りに包まれて、
あ、秋から冬、と電気が走るようにモードが切り替わったのであった。

春からなんとなく遠ざかっていた日本茶の
甘いような草いきれのような香りが
懐かしくなって、冬の朝の茶事が始まった。
と、これも急須でお茶を淹れるというにすぎないのだけど…

この季節、この瞬間、このこと、譲れないねってある。
初冬は、過ぎた夏の夏草のイメージを
年が明ければ待ちわびる春の若草のイメージを
朝思う楽しみは譲れない。

<なる力>
若さ、にもいろいろあるけれど、
「なる」ということを何の迷いもなく信じて実行できること
は若さの中の肝ではないかと、最近感じるようになった。

勝手な思い込み理論とはじめに断っておくけれど、
人間がこの世に生まれおちるまで
小さな細胞分裂から魚のような形になり人間になっていく進化の過程を
たどるように、生まれおちてからの成長過程も遺伝子に刻まれた人類史を
辿っているのではないか、と思っている。

どうやって言語を獲得し、コミュニケーションをとるようになったのか、
情動や感情の発達の過程も、絵を描くようになる過程も、
人類の辿ってきた歴史をなぞっているのではないだろうか。

では人類の遺伝子の最新情報はどこなのか?
当然、次の世代を作る年頃ということになる。
遺伝情報はその時点で次世代へと受け継がれるのだから。
じゃあ、子供を産んで以降の人生って遺伝子と関係なくない?
と思うけれど、
子供達に影響を与えることで遺伝子に大きく関与するのだと思う。

若い子育て世代の家に家具を納品すると
なる、ということを信じそこに突き進む子供たちの推進力と
なることに対する柔軟性に圧倒されることが多い。

テレビのヒーローやキャラクターになれる、と本気で信じているし、
例え恐竜であっても宇宙人であってもなってしまう。
積み木のような物の世界であっても
その世界の中に入って本気で遊ぶこともできる。

そういえば、数年前こんなことがあった。
ねえねえ、見てて!!少年が言うのだ。
目の前の、幅も深さも1mくらいの側溝には
くるぶしにも満たない深さの水が流れ
櫛目を通したような緑の藻が揺らめいている。
その側溝には渡しただけのコンクリの小橋がかかっており
その上に立って少年は言うのだ。
厭な予感しかしない。
が、あっと思った時には
彼は宙に舞い上がっていて、側溝の中へ見えなくなり
激しい泣き声が響きわたった。
着地に失敗、藻にぬめって激しく転んだのであった。
大事に至らなかったのが救いであったが
彼が跳躍から落下に転じる一瞬前の刹那に見せた
なんともいえない素敵な表情を忘れられない。
目を閉じていて、
今日は絶対に飛べる!!という確信に満ち、
想像ではすでに空に舞い上がっている表情なのだ。
だって、彼の頭にタケコプターがついているのだから
おもちゃの。

そういう力って大人になるほど衰える。

そんなシーンに出会うほど、
その時期しか持てない「なる力」が実は「進化」の秘密
なのではなかろうか、と感じるのだ。
イメージや想像の強い力が、
生物そのものが別のものに「なる」変化に導く
大きな要因の一つなのではないだろうかと。
ゆるぎない確固としたイメージが現実を推進させる。

だってそうじゃない?
スポーツの世界でも
フィギュアスケートで4回転ジャンプを誰かが成功させたい‼
からはじまって、一人成功させれば
できるようになる人が同時期に何人もでてくる。
今まで想像すらできなかったことなのに。
生物的進化だってきっと。

ずいぶん年を重ねて、さすがにテレビや映画のヒーローになることは
想像できないし、
いくら想像をたくましくしても
4回転ジャンプはできるようにはならないけれど
今までお世話になった恩人や、先生たちのようになりたい、
と、とみに思うようになってきている。
あの人だったら、こんな時、どう振る舞うだろうか、とか
どんな言葉をかけるだろうか、とか
素敵な顔、顔々々々…が思い出される。

大人の「なる」はそんな風にできているのかもしれない。
それをまた下の世代の永遠、に刻むために。
<ファミリーレストラン>
望むような形ではないのかもしれないけれど
上のような論理では
生物の「種」の縦軸では、
すでに「永遠」を手に入れていることになる。
否、個人の命の永遠性こそを望むのだという人は、
生き抜くことはシンドイ事ということを感じない人なのか
生きたい、と思う本能に忠実な人なのだろう。
古来より生きることの苦しみをどのように乗り超えるかが
大きなテーマであったことに疑う余地はない。

コロナワクチン接種のおかげで感染者数が激減し
11月末、永かった緊急事態宣言から東京も解放された。
ホッと肩の力が抜けた日々を過ごすのは2年ぶりで、
綱から解放された犬の寄る辺なさのような
変に気の抜けたような心持ちが何処かにあることも確か。
ワクチン先進国の現状を見れば
束の間、であると誰もが心の内では思っている。
ワクチン抗力は半年で1/10まで落ちるらしい。

街を歩けば、閉店してしまった店が沢山あるのに気がつく。
界隈では、
カラオケ屋、文具店、居酒屋、洋書店、和菓子店、布団屋、整体院、
モスバーガー、が閉店していた。
死屍累々である。
皆どんな心持ちで緊急事態宣言開けを過ごしているのだろうか。
心痛しか感じない。
このコロナが大打撃を与えたのは、
ほんとうに、ギリギリで持ちこたえて細々と日々を送っていた人達であり
その息の根を止め、心を打ち砕いた。

外からの帰りに夕飯にファミレスに入った。
緊急事態宣言が明けたことで、店内は満席に近い。
席に案内されメニューを眺めて一息いれたころ
何か異様な雰囲気に気がついた。
何だろうか?この違和感は?
壁際に陣取ったファミリーは3世代がわちゃわちゃと
楽しそうに談笑しながら食事をとっているのだが、
私の周りの席は、妙に静かなのだ。
人は居る。
でも、あれ?子供達だけ?
親御さん達はトイレかな?
と見ていても来る気配はない。
5,6歳から10歳くらいの兄弟姉妹のような子供が
4人だけのボックス席だ。
と、まわりを見回すとそんなボックス席がいくつもあるのだ。
不思議なのは、まったく会話がないのである。
そして皆、うつむいている。
ゲームやスマホを見ているわけではない。
子供が好きそうな、ポテトだとか鳥のから揚げのような食べ物は
テーブルの上に山盛りにあるのだが
手を伸ばして食べる子はポツリポツリで
下を向いたまま食べている。

やがて、遠い奥の席の方に引率のような大人が2人いるのが
わかってきた。

子供の集団なら
食いしん坊の子が一人でも居たり
ふざける子が一人でもいるのが普通だと思う。
皆、完全に個の内に居て心を閉ざしている。

その子達から感じたのは
深くおそろしく純度の高い絶望。
その純度ゆえの痛ましさ。

食べ物があっても、服があっても、寝る場所があったとしても
生きるには絶対的に必要なものがあることを
失うことで
この子達は知ったのではなかろうか。
そんなことを想像させた。

サンタクロースが、親だったらな、と
心から思っている子供達なのではなかろうか。

絶望の淵から這い上がって
真の意味でのサンタクロースになるのは
こういう子達なのかもしれない

2021.11.06. 想像の自由

身構えていたほどの残暑はなかった。
というか、緞帳が切って落とされたように
秋の気候に早変わりして面食らったくらいだった。
草花は混乱したようで、
9月早々に10月の花のホトトギスやシュウメイギクが
まだまだ準備が整わないゆえの貧弱な花を急いで咲かせた。
金木犀も10月に届かぬうちに咲いて、
冷たい長雨に香りも消されてしまった。
桜並木は葉も色付かぬうちに水分を含んだ重たい葉を
ぽとぽとと音をたてて散らした
春の旬の時期にはどぎついくらいのピンクの花を咲かせるハナモモが
さみしい綿くずのような小さな薄ピンクの花を
沢山咲かせていたのには驚かされた。
あたり前のあの頃のような秋は、何年かに1度くらいしかこないのだろうか
もしかして、ずっとこないのかもしれない、と思う数年だ。
ゆっくり充実して実をつけたり、花を咲かせたりできないことは、
すべての生き物にとって不健康なことだろう。

この夏の出来事として東京オリンピックを避けてはとおれない。
お・も・て・な・し、誘致プレゼンの勢いは何処へ、
スタジアム建設、エンブレム選定、とスタートから躓きまくり
コンパクトで低予算なはずが利権に群がる輩でどんどん膨らむ予算
まさかのウイルスのパンデミックでの一年延長
緊急事態宣言下で無観客試合
開幕式の失態、おまけに爆発感染の助長
オリンピックの金権体質を炙り出し
「レガシー」をしっかりと残した。
政治家が、復興オリンピックというスローガンを言い出し
なぜかコロナに打ち勝った証となり
最後は「共生」となってオリンピック中止論の矛先を鈍らせた。
アスリート・ファーストとは何だったのだろうか?
アスリートにとってはなんと不幸なオリンピックであったことであろうか。

しかし、東京オリンピックのこのような体質は
今までも、どこでも、よくある出来事であって、
規模の大小はあるものの企業や地域、
はたまたサークルのような趣味的世界、
親戚関係にまで存在する。
国家レベルでソレが可視化されたにすぎないのだと思う。

だが、今回、異例だったのは、
SNSが大きな決定権を持ったことだった。
民意の反映と言えば聞こえが良いが、圧力に近いもの、と感じた。
それは、「突出したものを許さない」という性質を強く帯びていたと思う。

今さらナニですが、SNSの本質は「感情」ではないかと私は思う。
論理的でも理性的でもない。むしろ不条理がまかり通る。
結局は、いいね、よくないね、に落とし込まれる。
その選択だって、昨日と今日で同じかと言えば怪しいものだ。
感動や熱狂、不満や苛立ち、嫉妬や怒り、がダイレクトに影響する。
匿名性ゆえ大多数のものか、マイノリティーなのか分母の判断が難しい。
感情の意思表示には優れたツールだと思うが
大局の重大な選択決定をまかせるには危うい。

オリンピックの決定事項の密室体質と金権体質が、
今の世相にマッチしていなかったことが
ことの発端だけど、SNSが示した、よくないね、で
その先の選択や決定が優れたものになったか、は疑問で
今後検証されてゆくだろう。(たぶん)

未来を切り開く感性というものは、
同時代に賛同されない性質を帯びていることが多い。
特に、芸術分野。
しかし、その未来的感性を発見し10年後、100年後の
未来が見えている人が世の中には数人いる。
その数人は今の時代の最前線を突っ走っている専門家であることが多い。
つまり、未来的な才能は、
SNSでの決定だと、大多数の賛同を得ることが難しく
文化的停滞を招くことになりかねない。
専門家を選ぶところまではSNS(公正な)でも良いのかもしれないが
(権威や権力の集中、馴れ合いを防ぐ意味で)
その先は選んだ専門家に任せるといった姿勢が
もしかしたらベターな結果をもたらすのかもしれない。

政治的なもくろみや利権がガチガチに絡むオリンピックで
そんな才能を発掘する必要などないかもしれないが
世界発信する、ということを考えると
未来への兆しを示せないことは
かなりさみしい気分になる。

開幕式にいたっては、
見ていてあまりの惨さに厭な汗がでっぱなしだった。
担当の現場のチームのことを思うとあまりに気の毒。
唯一、ITやデジタルを馳駆した表現はブレが感じられず、良かったと思う。
閉会式でパリが、低予算のライブで共生のテーマを
スマートにやってのけたのには
(東京大会へのエスプリではないと信じたい)
文化度の差を見せつけられて、恥ずかしさすら感じた。

更に、私が、ああ、、、と思ったのが
サブカルチャーの扱い方だった。
現在メインのカルチャーもかつてはサブカルであった。
皆、文化の位置づけが低かった。
無視、あるいは害毒の類に近い扱いと言っても過言ではないくらいに。
明治時代の新聞だってそうだし、テレビは、ラジオの方がメインで
ちょっと前のYouTuberのような扱いだった。
昔は小説だって娯楽にすぎず、漫画のような位置づけだった。
伝統芸能の歌舞伎や能だって、歴史を紐解けばよくわかるだろう。

そういったサブがメインになって権威を得た時、決定的に失うものがある。
それは、自由だ。
サブであり、ほとんど権威から無視されていたものを支えたのは
観客や購買者からの圧倒的な支持であって、
それは、自由に羽ばたく想像の翼、への支持だと思う。
それを栄養にしてサブカルチャーは育つ。
成熟期を迎えるとメインになって型化されたり、
道徳的な価値観を押し付けられたりして
身動きがとれなくなっていく。
テレビとネットの関係を考えれば良くわかる。
ロックの剥落ぶりやヒップホップの隆盛もよく現わしている。

今回の開会式で、アニメやコミック、テレビ?ゲームといったものが
取り上げられた。
メイン化しようとしている過渡期のサブカルチャーを感じた。
しかも、権力に利用されている姿を。
ゲームはまだまだ発展するだろうが、
Eゲームなどへのスポーツ化の傾向は社会性を高かめ
今後その本来の面白さを持続できるかは疑問だ。
メインになれば硬くなる。それを求められる。
私はゲーマーでも漫画好きでもないけれど
そのサブカルの混沌としてぶっ飛んだ全盛時代を生きてきただけに
なんとも言えないさみしい予感に、
ああ、と吐息を漏らしたのだった。

これからの未来、果たしてどこに自由の翼があるのか見えない。
バーチャル世界、あるいは拡張現実であろうことは確かだろう。
しかし、人はバーチャルな世界で、よりリアルな想像の翼を
羽ばたかせることで満足できるのだろうか?
現実世界の充実を生むのだろうか?
現実ともう一つの現実モドキの乖離に人間本体は耐えられるのだろうか?
バーチャルをリアル世界と同期させる脳への何かが開発されて解決するのか?
それは、今までと全く違う自由の翼かもしれない。

気候変動による動植物の成長の不安定さと
文化の成長とか充実までのたっぷりとした自由な時間が
今後持てなくなり、
矮小な花や実が多産されては消える時代になりそうな予感と
同期した。

なんだかかわいそうになって早咲きのシュウメイギクを活けた。
シュウメイギクは蕾も良し、花良し、すがれた姿も良しの花で
秋は活けても楽しむ。
次の日から季節外れの30度越えの夏日が数日続いた。
窓辺を見れば、しんなりと頭を垂れた蕾や花があった。
美しく枯れきることすらも難しい。


2021.09.02. 地上を泳ぐ

夏は盛りでも秋分の日を過ぎて夕暮れは秋が兆しはじめた。
(という時期にこの文章を書き始めている。)
それよりはやく、秋は夜からやってきている。
寝苦しさにふと眼を覚まし、うつらうつらと天井を眺めていると
窓の外に銀の鈴が一つ二つコロリコロリと転がるような
虫の声が聞こえだし、決まって涼しい風が窓から流れこんできて
また眠りに吸い込まれる。
それが今では、満天の夜空に鈴が踊っているような虫の声に変わっている。
何気ない、そんな変化を感じとって
移ろう季節の中の
自分の立っている座標を無意識に確かめている。

そんな夜の秋まで、まだまだ遠い午後の4時すぎ。
仕事で疲れた眼で、
少し傾いた日差しの中ふらっと外の空気を吸いに出る。
外は暑いとはいえ、工房のこもった熱気よりはずっとマシだ。
ミンミンゼミのけたたましく鳴く音圧に押し戻されそうになりながら
戸を押し開いて、一歩外へ。

天上は風が強いのか、空は高く澄んで
北の空に入道雲が沢山居並んで東へとゆっくりと行進してゆく。
たまに飛行機雲が横切る。
工房の上空は飛行機の要所らしく、以前は空を見上げれば
常に何機かの米粒ほどの機影が見えていたものだが
コロナの影響だろう、今は一機の機影も見えない時の方が多い。

ブラブラ歩きながら沿道を公園の方へ、
その頃には遠くのものにも目の焦点が合うようになってくる。
公園の樹々は空に近いほどに聳えて立派だ。
梢は風をつかまえて葉を揺らしている。
ぼんやりとそんな光景を眺めていてフッと気がついたことがあった。
なんて豊富な緑色の種類があるのだろう!
その草木の微妙な緑色をなんの苦もなく見分けている!!と。

あの濃いけど光っているのは椿の葉だ、柔らかく涼し気な緑は桂、
少し白く光るのは、あれはススキ、赤いのは楓の新葉だね、と瞬時に見分けている。
例え、名前は知らなくても、違い、を認識してしまっているのだ。
その繊細な識別センサーを知らず身に着けて生きている。
氷の国に生きるイヌイットはいくつもの白を見分けるように
私は緑を見分けている。
それがその土地の人の感性というものだろう。

そういった当たり前と思われるけれど特殊な感性の獲得に関して
海の記憶というものがある。
私は相模湾の海沿いの街に住んでいたので海っ子だった。
小学生の低学年、3月くらいになると、もう海遊び、海で泳ぎはじめる。
正月から海に潜る漁師街の子達も居た。
3月の海はまだ冷たい。
限界まで泳いで、あわてて砂浜に戻り、砂に埋まって暖をとる、
身体が温まったらまた海に入る、を繰り返すのだ。
サーファーの出現は数年後、ウインドサーフィンは更に後なので
春の砂浜は誰もいない静かな海だった。
波と風の音、時おりトビの高く鳴く声だけの
神話の世界のような静けさだった。
まれにデートに来ていた大学生くらいのカップルが
真夏のような遊びに興じる私達を見て笑って歩いていった。

泳ぐのに飽きると砂浜を掘りまくり、
ダムや山やトンネルや巨大な基地めいたジオラマを作る。
だいたい波打ち際近くの濡れた砂のところでつくる。
と、波の届く位置が微妙に変わってゆくことに気がつくようになる。
つまり、潮の満ち引きを感じるようになる。
工作物が波で壊されてしまうかどうかの瀬戸際なのだから
真剣に潮の満ち干に向き合うようになるのだ。
(私の持っている払拭できない諸行無常の感覚は
日々繰り広げた砂遊びでの波との格闘の結果なのだ。)

そして、満ち引きが景色を一変させてしまうことも知る。

今まで陸だった岩場がいつのまにか海になり
小島に取り残されそうになって
必死で潮に取り残されている島々を伝うのだが
満ちて侵入してくる海流というのは変則的で激しく
傷だらけ(岩は鋭い貝の殻に覆われているので)
になりながら岸についたり

引き潮に泳いでも泳いでも岸から遠ざかるような
恐ろしいような体験もして
それに伴う危険や恐怖も知るようになる。
いつのまにか潮の干満を意識しながら遊ぶようになる。

高学年になってくると、堤防からのアクロバティックな飛び込みの毎日。
(潮の干満で堤防から海面までの高さは2mくらい変化する)
カネという道具を使ってウニやトコブシを採るために潜るようにもなる。
冬や春は防波堤や岸からの投げ釣りに興じる。(ほとんど釣れないのだが)
その頃になると、海の機嫌をうかがいながら、といった感覚になっていて
海の濁りや波の高さ、海流の向き、魚の魚群の動き、流れくる海藻などの
ちょっとした変化をも敏感に察知するようになって
遊んだり、やめたりを判断するようになっている。

中学生や高校生になってくるとだんだんと一般的な海水浴に近くなってくる。
夏休みは、浮き輪にお尻を突っ込んでプカプカと何時間も波間に浮かんで
空を眺め思春期を過ごした。

やがて大人になる。
風に乗って聞こえる遠い潮騒と潮の匂いで海の機嫌がわかるくらいになると
あまり海で泳がなくなる。
大人になってから外から越してきた人々は、海遊びを盛んにやるけれど
地元の人は、もういいや、と思うらしい。
よくわかる。

海に入っている時、地球は躍動していた。
途方もなく、制御など不可能な、絶対的な力を思い知る。

母なる海、とよく言われるが、
もっと、気まぐれで激しいギリシャ神話的な絶対神のような
そんな印象を抱く。(そうか、ギリシャは海洋国家だ)
ある年の台風の大波で私達が遊んでいたコンクリの防波堤が、
真っ二つにねじれたように引きちぎられたことがあった。
そういう恐ろしさも見て知ってしまう。
もはや子供のような無邪気さではつきあえない。
けれど、慎重に観察し、身委ね、仲良くする方法があることも
知ってはいる。
踏み込みすぎることは危険
だけどいつも傍で感じてはいたい。
そんな関係になってゆく。

公園の緑に話を戻そう。
微妙な緑を識別できるように、
私は微妙な海の変化がわかることを思い出した。
風にはためく梢の葉を見ながら、
海の中の緑を思いだしている。
海藻が海流に揺らめくリズム。
風にはためく樹々のリズム。

躍動する地球の地上を、泳いでいる。


2021.07
.11. 梅雨らしさ

今年、庭に3株ある西洋アジサイの葉が
虫に食われて丸坊主になった。

この借家に越してきて15年近くなるが
こんなことは一度もなかった。

その時すでに大きな株で花を沢山咲かせて
そこに居たのだから

きっとかなり歳のアジサイであることは確か。

気がついたのは、
5月の新芽が開いてきた頃のことだった。

調べてみると
アジサイハバチの幼虫に食べられてしまったようだ。

アジサイの無い今年の梅雨のなんと寂しいことか。
青に紫の混じる毬のような大柄の花をつける
昔ながらの西洋アジサイで

ちょっと整枝してあげるだけで毎年大輪の花を咲かせてきた。
妖艶過ぎず華美すぎない。
よう!と、Tシャツ短パンで言葉を交わせるような
そんな気安さで付き合える古馴染みのようなところが
心地良かった。

ハバチも一段落し、青葉を取り戻したものの花芽はつかなかった。
季節の「らしさ」がゴッソリ抜け落ちてしまったのだ
と気がついた。

どれだけ花に支えられて鬱々とした日々を乗り切っていたことか。。。

この、季節の「らしさ」の喪失感から
ふと、「らしさ」について考えてみた。

「らしさ」は感覚的な統計なので移ろいやすい。
どんどん書き換えられてゆく。
私が梅雨に望んでいる梅雨らしさはすでに何十年も前の
もう少し地球が涼しかった頃の東京の梅雨であって
今や何年も熱帯スコールの梅雨が続いているのだから
これが「最新の梅雨らしさ」とも言える。

最近、多様性を認めようというあまりに
わかりやすい「らしさ狩り」がおきているように思う。
プロパガンダとして分かりやすいからだと思う。
狩っても狩っても新しい「らしさ」が現れるだけなのだから
「らしさ」を狩ることは不毛だろう。

さらに、過去に遡って、小説や映像作品の「当時のらしさ」を
改変することは非常に危険なことだと思う。
当時と現在を比較して検討、論評することは良い。
しかし、過去を修正して消し去ることは歴史修正である。
たとえ現代からみておぞましいような感覚であっても
それが存在したことには、意味がある。
その意味は、他の存在の意味につながっている。
そういった繋がり全体が時代の空気感だ。
それは再現不能でちょっとしたピースが欠けることで
分からなくなってしまう。
ということは最新の感覚の出自までがわからなくなる。
本質の検討ができなってしまう。

らしさ狩りの果ては、
芝生の公園を思い浮かべる。
一面緑で見晴らしが良くて、
気持ちがハレバレして背伸びしたくなる。

でもよく考えたら、植物は単一の芝しかない。
住むに適する昆虫や鳥の姿も限られる。
そして、管理者がしっかり管理して維持される光景。
なんとなく、「らしさ」を狩った先にあるのは
そんな社会なのではないか、と想像してしまうのだ。


秋の花野、春の百花咲き乱れる野原、
どんな花も居場所を見つけて
スッタモンダしながら盛んに生命を全うできる。
草陰には様々の昆虫や鳥獣が隠れ住む。
そんな社会が本当の多様性だと個人的には思う。
自然界には厳しい自然淘汰の掟があるのだから
それを理想化するのは違うと思うけれど。
(弱肉強食の世界ができるだけだから)
理想をルールでもって実現できるのが人間なのだから
思い描く理想のイメージの方向が大事だろう。

もちろん、芝生の大地には芝生の世界の平和というものもあり、
それを幸福と享受して生きる人々が増えれば
平和や生きることや多様の意味や「らしさ」も
それに沿って変わってしまうだろう、が。。。
人類はその環境を本能的レベルで本当の幸せ
と感じるようにはできていないと思う。。。

多様性を認める社会のその目的や方向は
「寛容であること」のはずだ。
寛容は、理解できないことを分かろうとする努力からはじまる、
と思う。無関心ではない。血の通った温かい感覚だ。
興味を持つ、知ろうとする、思いやる、尊重する、
そういったすべてを含んでいる。
とても難しい。
しかし、それは同時に
自分が受け入れられ、思われ、尊重されることでもあると思うのだ。
多様性を言い換えれば「寛容」になると思う、、、

目を庭にもどそうと思う。

アジサイの無い庭であるが、
梅雨というのは鳥たちの巣立ちの季節で
今年も変わらず
メジロやシジュウカラの幼鳥が親鳥に連れられて
実地訓練にやってきた。
チチチチッと普段よいバカっぽい大きな声に目をやると
大きなクチを開けて親に餌をねだっているメジロの幼鳥がいて
親が2回に1回くらい口移しで蜜を飲ませてあげている。
それから自分で飲み方を教える。
変わらぬ梅雨らしさが展開されている。

幼鳥は、しばらく私(人間)の姿をあまり恐れない。
だんだんと用心深くなり、人間との距離も学ぶようだ。
あまり人間を信用しすぎないように
頼りすぎないように自然界で生きれるように
私の方でも近づきすぎないように気を使っている。
しかし逆に、鳥側も私を見て観察しているというのは感じる。
それが感じとれる時がうれしい。
とても分かり合えなさそうなものなのに、
気持ちが通じた時の喜び。
寛容によって得られる喜びってこれに近いのかも。

目をつむる。
耳には鳥の子の声。
すうっとクチナシの香が窓から入ってきた。
瞼の裏に満開のアジサイが広がった。


2021.05
.14. 黒板五郎

路地の垣根には柑橘の白い花の香りが充満していて
五月晴れの空の彼方には
まだ裾野まで真っ白な富士山が
映画館で観る松竹映画の始まりのように
ドンと真正面に見える。

一か月早いような季節の移ろいの中で
2021年5月、顔まで新緑に染まりそうな東京は
3度目の緊急事態宣言の中にある。

蜜柑の花の香りを嗅げているのだから
きっと、まだ罹患はしていなのだろうと、フと思って
イカンと顔を上げて空を見上げたのだった。
本当だったら花の香りに素直に酔えばいいだけじゃないか。。。
そんな時に富士山はでっかくて、
なんだか優しさを湛えていつも変わらずそこに居てくれる。。。

そんな富士山のような印象を残したまま
今年、テレビドラマ「北の国から」の
黒板五郎こと田中邦衛さんが亡くなった。

私にとって田中邦衛さんは黒板五郎なのだ。
なぜなら、黒板五郎として縁があったからなのだ。
私が木工を志し訓練校に入学したのはもう30年ほど前。
「北の国から」ではこれから黒板五郎が自分で家を建てる、
というシーズンの前にあたり、大工のことを学びに
田中邦衛さんが 我が訓練校の木工科に来ていた。

現実の黒板五郎さんは
テレビで観るよりもずっと小柄というか
コンパクトに縮小したような印象だった。

しかし、まったく黒板五郎そのまま、
腰が低く、奥底に優しさを湛え、生きることに不器用
そのまんまの人柄だった。

その頃私は髪が長髪で後ろに束ねていたから
目立ったのかもしれない。

(2年間だけ伸ばしてみた時期があった。)
あるいは、とっつき安かったのかもしれないが、
作業をしていると、話しかけてくれて質問されたりした。
「あのさぁー、ここはさぁー、どうして、こうするんだい?」
(田中邦衛さんの真似で)
継ぎ手の「アリ組み」に興味があったようだ。
どう答えたか覚えていないのだけど、
きっと要領を得ない返答だったのだと思う。
そんな会話がしばらく続いて
最後に、
「そうかぁー、ありがとう、お前、がんばれよー!」
と肩を叩かれた。

そしてあの感じ、口を「ほ」にして笑った。
皆で記念撮影して
帰り際にも肩を叩かれて
がんばれよーと笑った。
何か温かく行くべき方向へ押し出されるような、
元気をくれるような手だった。
あまりに単純な「がんばれよー」
の田中邦衛さんの言葉とひと叩きに
まさか後々まで、仕事の踏ん張りどころで励まされ続けた。
一流の役者さんのナマの言霊の凄みよ!

しばらくして北の国からの新シーズンが始まり、
大工のシーンで、継ぎ手のシーンが数秒流れた。
この為、だけに、、、、偉いものだな、と感心したものだった。

しかし、当時の私は「北の国から」に
そんなにハマり込んだクチではなかった。

ジュンのあの煮え切らなさ、湿っぽさが、
どうもしっくりとこなかった。

ジュンはほぼ同年代ゆえ、
心模様のズレに、つい目がいってしまいがちだったのだ。
けれども、北海道の風景は雄大で美しかったので
それを楽しみに観ていた。

ネット時代の今の子供たちよりも、
激しく興味がなくても長時間そのコンテンツに
留まった時代だった。

意外な発見や情感は、そういったところにあって
見聞が広がっていったようにも思う。

ところで、このドラマが放送されていた当時の
日本の背景を思い出してみる。

当時の日本はバブル景気の真っただ中にあった。
土地ころがしで大金を手にした成金が闊歩し、
都心では地価の高騰で相続税を払えない人々が現れ
地上げ屋に追い立てられ
戸建ての住まいを
マンションにするか、立ち退くか、首を括るか、
そんな血も涙もない選択を迫られた。
心の寄る辺ないところに
詐欺のような新興宗教が雨後の筍のごとく出現し
すがりついた人は、
身ぐるみはがされ、人生、家族との絆まで奪われた。
農協の団体が海外旅行をし、
蕎麦のようにスパゲッティーを啜り
ヨーロッパでブランド品を爆買いして
ついでにヒンシュクも買った。

ニューヨークのランドマークのビルディングを買って
戦争の仇をとったようにイイ気になり、
企業は大学新卒予定者を青田買いするために
クルーザー旅行で監禁して採用に持ち込むような
狂った採用をし、

そんな諸手で迎えてくれる未来を手にした学生達が
夜な夜な遊び狂っていた。
中心メディアはテレビだった。
女子大生が商品化され、
秋元康が現れ
今のアイドルブームの基礎を築いた。
結婚したい男は三高(さんこう)と言われ
背が高い、高収入、高学歴だった。
優秀な同級生の大半は金融か証券、銀行に就職をした。
「欲望」が全面肯定され、
「金こそ全て、金があれば何でも可能だ」という
拝金主義の幻覚に日本中がラリっていた。

それは善悪ではなく、それが人間というものだろうと思う。
歴史をみればそんなことを繰りかえしてきた。
昔のオランダの「チューリップの球根」だとか
中国の「金魚」「コオロギ」
日本だと戦国時代の「茶道具」も

同じようなものだったと推測する。
その時、日本ではそれが「土地」だっただけだ。
土地は「農地」ではないので魔法が解ければ、
生産性の無い価値相当の地面に戻るだけで
崩壊後、何億もしていた都心の土地は買い手なく
駐車場になるぐらいしか方法はなかった。
持ちなれない大金を手にしての行いも
国、人種、大差ないのは今でも解る。

「バブル」とは上手に名付けたもので
ただただ膨らみつづける風船の薄皮一枚の上で
祭りを繰り広げているような
妙な心もとなさを伴っていた。

好景気の恩恵を受けながらも、
グロテスクな時代だと学生の私は感じていた。
そんな時代背景に背をむけたように企業に就活をせず
木工などという道に進むことは、
周りから気が狂ったような奴と映ったようだ。
(アンチとして木工をはじめたわけではない。)

しかし、そんな世相へのカウンターカルチャーもしっかりあったのだ。
雑誌にもテレビにも
今までの地にしっかり足をつけた生活を
現代の視点で編集しなおし、
新しい暮らし方を提案する切り口や特集が沢山あった。
衣食住が足りて、「上質」を求め
文化に目が向けられ、
文化施設にお金が流れるようになって
魅力的な展示会が沢山開かれた。

また、使い捨て消費だけの社会に対して
エコロジーという言葉や概念を初めて聞いたのもこの頃だった。
今のレジ袋規制が割り箸排斥運動に変わった程度のものだったが。

そして、大学を卒業した直後、木工科に在籍していた頃に
バブルの崩壊のニュースを聞いたように思う。
元号は昭和から平成になっていた。
しかし、その影響はすぐには現れなかった。
慣性の法則のごとく、世間は何事もなかったかのように
今までの生活を数年つづけられた。
一部の専門家以外、
誰もその影響の凄まじさを想像すらできなかった。
土地の爆弾送りがいよいよ銀行にまわり
不良債権問題が本格化して
やっと世間に不景気のどん底が実感されはじめたように思う。

仕事関係だと、
土地に手をだしていた材木屋は軒並みつぶれた。

崩壊の一番大きな影響は、若者の就職難と
未来への漠然と抱いていた「希望」が奪われたことだろう。

諸行無常、栄枯盛衰、奢れるものも久しからず、
ただ風の前のチリのごとしを「眺めた」世代といえる。
社会人として火中に居て「体験した」と言えるのは
もう2、3歳上の先輩以上の世代だろう。

そこで、北の国からに戻ってみる。
世相から考えれば、負け組、の物語だとわかる。
しかし、視点を変えて、人間としての尊厳を問われたなら、
単純な勝ち負けでは評価できないでしょ、
というのがこの物語だろう。

独立独歩で歩いてゆくことの自由と苦しみ。
あきらめて捨てきって、代わりに得るもの。
生きるって、どういうことなんだろうか?
きっと、この年齢になって観たら
シミシミに沁みるドラマ。

自分が木工で独り立ちしたのはバブル崩壊後の不況の中であった。
景気などまったく意識せず、
ただただ前を向いて与えられた環境に身をまかせ歩いてきた。
いろいろな現場で
若造の私に寛大でやさしくしてくださった
年配の職人さん達に沢山出会った。
そんな職人さん達の瞳の奥に
必ず黒板五郎をみつけた。

そして、少しづつ少しづつ、知らない間に
黒板五郎になっていった自分が、
今になって見える。

あの木工科で、なぜ、自分にばかり話しかけてくれたのか、
がんばれよ!と肩を叩かれたのか、
もしかしたら、あの時、
自分の瞳の奥に。。。

田中邦衛さん、あなたの言葉に支えられてここまでこれました。
ありがとうございました。
ご冥福を心からお祈りいたします。
富士山に黙礼をした。

2021.03.16. 探梅
 
分け入って 黄色い電車は 梅林
 
多摩ともなると
広い空の広がる梅林から
両側の丘陵がせまる渓谷の狭隘を埋めるような梅林まで
東西に走る長~い1路線の電車の車窓から
息をのむような探梅が楽しめる。
例えば中央線は
新宿を出発して西へ向かうと、高円寺、吉祥寺、国分寺、八王子と
「ジ」のつく駅ごとに1度づつ気温が下がってゆくといわれている。
ということは、西へ行くほど
季節が逆戻りした風景が展開してゆくことになる。
過去に向けて走るタイムマシーン電車となるのだ。
 
満開の梅の新宿を出発して
1時間後の青梅あたりはまだ早春で梅がチラホラ咲く頃。
「感覚」だけは、過去に置き戻すことができる。
再出発しなおせる。
逆に、東へ少し未来をツマミ食いしにでかけて行くこともできる。
そう意識して電車に乗ると
時系列を自在に行き来できる不思議な日常が現れる。
特に、冬の無から春の有への劇的な変化が見られるこの頃が
それを一番実感できるように思う。
 
中央線の北側を平行して、やはり東西に走る長~い路線が2,3本ある。
西武新宿を発着して拝島に向かう西武拝島線。
西武池袋駅が基点の西武池袋線
(今は、東京のもっと東の臨海部や、横浜までも直通で繋がっている。)
同じ池袋から東武東上線がある。
 
西武線はさら奥の秩父まで直通の特急レッドアロー号というのもある。
が、乗ったことはない。いつか一度は駅弁を携えて乗ってみたい。
 
その中で、私が好きなのは、西武新宿線~拝島線。
西武新宿駅から小平までが西武新宿線で
小平駅で所沢方面と拝島方面に別れ、そこから先が正式な拝島線。
西武線は、タンポポのような黄色い電車だったが、
最近は銀色にブルーの帯の車両になりつつある、ようだ。
野球のライオンズのチームカラーの影響だろうか?
鉄道マニアではないのでわからないが
私は黄色い方に馴染んできたし、好き。
 
さらに、都心で乗り降りする駅の中で、
西武新宿駅が一番好きなのだ。
3本の黄色い電車が発着する独立した終着駅にして始発駅。
その規模の程よさ。
大きな一箇所の改札の動線。
駅のホーム上に、ビルを建てなかった潔さ。
光を透過する乳白色の幕のファザードが駅全体を覆っていて
その明るさの色味が
いつも新鮮な希望溢れるようなイメージを喚起する。
さあ行くぞ、さあ帰るぞ、そんな勢いを与えてくれる。
きっと完成当時は
もっとキラキラとした希望を放っていたに違いない。
そして乗降する人々も。
 
さらには、モニュメントなどない
単純明快で作為を感じさせない程よい品の良さ。。。
 
あれ?!今、気がついた。
これは、無印良品的な駅だ。
西武新宿駅は、西武グループの「暮らし方提案」のコンセプト
に添ったものだったのかもしれない?
 
西武新宿線の良さは、なんと言っても
「突出したところがない」こと、だと思っている。
住みたい街ランキングの上位に載るような人気スポットもない。
金持ちやそうでない人の差をそれほど感じない。
いつも平均の「中」ぐらいの生活感が漂っていて
年齢層のバランスも良いように感じる。
そして、なんとなく、生活とか暮らしとか、が見えて
その暮らしは、
都心と一本の路線で結ばれた地元の「街」を
都心とそう遠くない、と感じつつ
都心を近所の商店街か市場の延長のように
心も身体も、上手に行ったり来たりして
好奇心を持って楽しみながら
成り立っているような、暮らし。
 
ああ、その暮らし、
無印良品を買いそうだ。
駅前の「西友」で買いそうだ。
 
沿線にはスーパーと商店街が上手に住み分けして生きている街が多い。
大型ショッピングモールのブルドーザー型の顧客囲いの街は無い。
今や少しノスタルジックにすら感じるバランスなのだけど
人が生き生き暮らすには
コレぐらいが程良かったんじゃないのかな、と思う。
 
しかし、だ、
小平駅を過ぎて拝島線に入ると、途端にその気配が消える。
暮らし方提案の魔法は消え、かぼちゃの馬車になる。
元、農業飼料を運んだ西武線が素の姿を現す。
急にのんびりとする。
車窓の風景は新興住宅地に畑が散見され、
やがて畑だらけに雑木林の武蔵野の風景が主になる。
小川駅を過ぎれば、たとえ車内で御弁当を広げている人が居ても
そこまで奇異ではなくなる。(推薦はしないけど)
 
大きな御屋敷に倉などもみられ
ほんとうに、タイムマシーンで
ずっと昔の過去に来たような気になる。
大きな屋敷には必ず立派なケヤキの木が何本かあり
(アフリカのバオバブの木ように見える、と書きたいが変な気もする)
そこに梅の木の立派な枝ぶりの老木もあって
霧を掃いたような見事な紅白の梅の花がみられる。
泰然とした重みのある梅の美。
菅原道真が衣冠束帯でヒョイと居ても
まったく違和感がないような美。
 
やがて、玉川上水沿いをひた走り拝島駅へ
終点の拝島駅は、思えば遠くへ来たもんだ感が湧く操車場のある駅。
JRに乗り換えれば更に奥へと旅することができる。
 
そんな西武新宿~拝島線押しなのは、
自分の初めての下宿先が西武新宿線にあったからではない。
(うん、いや、ちっとも無い、とは言い切れない。)
今の工房が拝島線にあるからでもない。
(これは本当、たまたまそうなってしまったの。)
 
東京近郊の私鉄というのは、東急、小田急、京王にしろ京急にしろ
同じように沿線を開発してきた歴史がある。
その中で西武はもっとも後発であった。
基点の西新宿や池袋は御世辞にも
あまりイメージの良いところではなかった。
路線は、本当に牧歌的な多摩の農業地帯。
若々しい思い切ったイメージ戦略をとったのだと想像される。
その、新しいエネルギーというか勢いと
標榜した方向に、呼応した乗客層でつくりあげられた感覚。
が、今も一つのトーンとして色濃く感じとれる。
 
21世紀に入って、乗客にアジア諸国の人が増えた。
西武新宿線の突出の無さ、の包容力と
漂う未来への若々しい勢いのようなトーンが
むしろ今日本に暮らすアジア諸国の人の方に馴染んでいる。
似合っている、とすら感じる。
新興勢力の新鮮な新陳代謝がいつも上手におきている。
なんだか、そう感じるから好きなのだ。
 
先日、ちょっとした用事で、
その西武新宿線沿線のはじめての下宿先の近くに来たもので
30年ぶりにそのアパートの前を通りかかった。
東京の同じ沿線に住んでいても、不思議と寄らなかった。
 
台所とトイレはあったけど風呂無しの2階、
でも銭湯まで0分のアパートだった。
大学1年生の18歳の途中から5年程住んだ。
大家さんは引退した大工さんで、
大家さんが自らの手で建てたアパートだった。
建ている当時にオイルショックの時代になり
資材が手に入らなくて困ったと聞いた。
時々アパートの下の庭で木を削っていることもあり
失敗すると腹いせにうなり声と共に何かをブン投げたりして
ちゃぶ台をひっくり返す寺内貫太郎みたいだなと思って
2階の窓から眺めていた。
 
家賃を持っていくとおかみさんはミカンやお菓子をくれた。
おかみさんが、かけてくれた言葉を2つだけ覚えている。
「ここに住んで雑巾を干した人はあなたが始めてね」
という言葉と、
木工を仕事にすると報告してアパートを出る時、
「仕事は運よね。」と、
夫の大工の仕事にからめて話してくれたこと。
今も御元気だろうか?
 
そして、今もアパートはあるのだろうか?ドキドキした。
 
あった。
そのまま、あった。
隣の魚屋も、その隣も、ままあった。
まるで、そのまま時が止まったように。
外階段の2階から自分が降りてきそうな怖さがあるくらい。

なぜか涙が溢れてきた。
はじめて流す種類の感情の涙で言葉にできない。
、、、ああ、あれが青春だったんだ、と感じた。
そして、この時、青春の魔法が終わったように感じた。
 
私は、西武新宿線を東へと向かったはずだ、
ということは
タイムマシーンは未来の季節へと向かったはずだった
だけど、逆方向の、本当の過去に辿りついてしまったようだ。
 
もし、もしも、タイムマシーンで過去に戻れて、
自分に会ったら、何を話しますか?
若い頃は、漠然と、無邪気に、未来がわかったらいいのに、と
思っていたものだったけれど、
随分と先の未来を知ってしまった今、
過去の自分に何か伝えたい言葉が見つからない。
これから起こること総ての結果が、今の自分なのだ。
 
近くで場違いに号泣している、中年や壮年の人を見かけたら
もしかしたら未来から来たあなた、かもしれない。。。
 
かつての大家さんの庭に咲く都心の白梅は少し未来の満開で、
鮮烈な匂いを放っていて、四角く切りとられた都会の空は
雲ひとつない過去の青春の空だった。
 
2021.02.18. ノイズ
 
静電気がおきない。
毎年、悩まされる静電気が全然おきないのだ。
あの不意打ちのビリッ、など好きなわけがないが
毎度あるものが無いは無いで気持ちが悪い。
去年と同じような服装だし
今年の冬も雨がほとんど降らず
頻繁に乾燥注意報もでていた。
なのに、ということは、
自分が電気的に発電できていないような
もしかして、生命力が衰えているのでは、
などと勘ぐってしまう。
 
今年の冬は、年末前まで暖冬だったので
楽勝だろうとたかをくくっていたら
北関東から東北は例年にない大雪。
南関東にも獄門のような寒波がきて震え上がった。
急ぎ、冬の完全防備、
ハイネック、ヒートテックの極暖、暖パン、パーカー、
冬山用のダウンのベストを着込んだ。
仕上げの貼るカイロも背中に2個貼った。
部屋着、外着、作業着の区別はあるものの
ほぼこのスタイルで春を待つ。
寒がりなのである。
といって夏が得意なわけではない。
むしろ、着れば防げる寒さの方が
どちらかと言えばマシとは感じている。
生命力が、、、
静電気がおきないわけだ。
 
そんな折だった、ちょっと年下の知人から
「50代ってどうですか?」という質問を受けた。
はて、どんなもんだろうか、と普段年齢をあまり意識しないので
何かふとしたタイミングで
その質問が浮かび上がってきて年齢差を検証するようになった。
 
そういえば、最近は妙だが夢に現れる思い出が澄んでみえる。
解像度が上がったというか。
不意に、小学校で1度くらいしか話したことがないようなクラスメイトを
思い出したり(でも名前は思い出せない)
1度しか迷い込んだことがないような路地裏を思い出したりする。
(でも何時、何処、が思い出せない)
それが、超現実の表現主義のデジタル絵画のような
夾雑物がまったくない非常に透明度の高い水晶体から
覗いているような映像で再現されるのだ。
この現象は、何だ?
加齢による「キレイな思い出化」がおこっているのか?
記憶のメモリーから不純物を取り除いて軽くしているのか?
脳内のダンシャリか?
何か意味深な啓示なのか?
最近はやりのオカルト的陰謀のせいなのか?
誰かの思惑と偶然で世界は動いているのだから
それを検証不能な陰謀と言い換えればそれも一理あるが、
そもそも私は日本国民なので
アメリカの大統領の言動に一喜一憂する筋合いはない。
陰謀論に陥れるための陰謀。
これは違うだろう。
 
でも待てよ、
ハーバードだかの偉い学者が宇宙人の建造物と思われる物体が
地球の近辺を通過し、地球を観察済みかも、と言ってたぞ、
私はアメリカ人ではないが宇宙の一員だから
宇宙人だ、宇宙人の陰謀だったらどうしよう。
 
年末、実験棟「きぼう」を夜空に見たとき
北西の空に急に現れ、ツツーと東に移動して急にパッと消えた。
あれは、昔から目撃されているUFOのソレであった。
宇宙人陰謀説はあやしいぞ。
小学生の時、宇宙人にさらわれた、といっていた子もいたし。
 
最近は、火球も頻繁に目撃される。
映画テネットのように時空を越え
あれが、未来から送られてきた何かカメラのようなもので
2020年という年が人類にとって大きな鍵になる年であり
観察するために送られてきたのだとしたら、、、
未来のルールで証拠物質は過去に残してはならない
焼却処分→火球だったら。
 
いや、あの火球は、シュワちゃん扮するターミネーターに違いない。
ターミネーターの世界は確実に実現しつつあるのだから
あの映画は、未来人が送り込んできた想念によって完成したに違いない
未来人は物質ではなく想念だけを時空を越えて送ることが
できる装置を開発して、過去の映画脚本家の頭に送ったのだ。
現代だって音声と映像を遠隔地に送れるようになったではないか。
 
いや、やはりこの世は仮想現実でマトリックスに過ぎないのかも。
本当の私はジャックで何かにつながれてタンクの中に入っており
静電気が起きないないことや、夢の解像度があがったことも
タンクの設備がアップデートされたせいだ、きっと。。。
色即是空空即色。。。
 
ああ、
最近、読了した「ねにもつタイプ」岸本佐知子著のせいだろう。
こんな現実逃避的妄想と陰謀論を弄んでしまうのは。
 
とにかく私は帯電していない。
帯電しておらずアースがついてしまったようなのだ。
雑電気がなく澄んできている。
夢の方が抜け出せないほど美しくなってしまったら。
夢の方が現実にとって変わる日がくるかもしれない。
 
だけど、なんだか意味不明な帯電やノイズ
あの夜の闇にスパークする静電気の火花やドキッっとが、
なつかしいような
いとおしいような気さえしてくる50代なのだ。
といっても、まだ入り口。
こんなことを書いてしまうノイズは残っているようだ。
 

2020.12.31 武蔵野の夕暮れ

東京の冬至の日の入りの時刻は16時32分
午後3時半を過ぎるとなんとなく冬の夕暮れの
澄んだ寂しさのような気配が漂いはじめる。

知り合いの奥さんは宮崎県出身の人で、生まれ育ちも宮崎
結婚してはじめて上京し、いきなり都心に住み始めた人。
10代~20代のはじめで一度上京してきている人が多い中
あまり出会ったことがないケースかな、と思う。
私の周りの東京在は
富士川より東または北の出身の人が圧倒的に多いので
宮崎県はさらにレアケース。

納品が終わってのヨモヤマ話の折、
上京して一番驚いたことは何か、の話になった。

一番は日の入りのはやさですね、と奥さんは言った。
ウツになりそうなぐらいつらかった、とのことだった。

調べてみると、宮崎の冬至の日の入りの時刻は17時16分
東京よりも45分近く遅い。
ということは夏至にいたっては
なんと夜8時近くまで、まだ明るいということになる!!

朝というのは、地方でもあまり変りないように想像するけれど
夕暮れには地方独特の個性があるのだろう、と
その話を聞いて思った。
宮崎出身の奥さんが失ってはじめて感じとったように
そこに息づく人々の情緒に
じんわりと、だけど大きな影響を与えているのではなかろうか。

ここ東京立川の
武蔵野の台地から見る夕景は遠く西に秩父の山並みがつらなり、
南に続く箱根の山々その突端に神奈川県の大山が
一際大きく牛の背のように見える。
その向こう側には流麗な富士の山容がドンと見える。
やさしく城壁に囲まれ、守られているような
それらの遠き山々のシルエットに日が落ちる。
富士山に落ちる太陽は荘厳といっても良い。
茜色に染まった空は広く
夕焼けの時間は長い
やがて、火星や金星などの
明るい一番星がその上に見え
時節によって月も共にかかる。

その武蔵野の夕景の中
この土地に生きた
いろんな人々の顔が浮かぶ。

縄文の古代から栄えた土地柄であるゆえか
時々、丘の上の遺跡に住んだ古代人の
夕陽を浴びた毛深い顔。。。

乾いた風、関東ローム層の水に苦労する赤土の中
辛抱強く用水路を整備し米や麦を作った農民の
荒々しくも実直で勤勉な顔にあたる夕陽。。。

幕末の新撰組の土方や近藤を輩出し
明治期は自由民権運動の発祥の地となった
革新や改革に動き出し実行した志士達の
希望に上気した顔に当たる夕陽。。。

車製造の日産プリンスや
無印良品を生み出した西武グループが
戦後の新しい生活を創造しようと奮闘した
理想に燃えたサラリーマン達の顔を照らした夕陽。。。

どの顔も明日に向かって果敢に進んで行こうとする顔。
明日につながる希望を持つ顔。
なぜだろうか、武蔵野の夕景にはそんな気持ちにさせる
何かがあるように感じる。
寂しさでも詩情でもない、
希望をいだかせる何か
前に進もうという衝動をもたらす何か。

2020年暮れ、
さあ、来年こそ!
富士を茜色に染める夕景を見ながら思う。
夕景が頼りない背中を押してくれる。

2020年ありがとうございました。
皆無事でありますように。
来年もよろしくお願いいたします。

2020/11/08 足音

久々の秋の快晴に誘われて
普段は車で行く程の距離の買い物に歩いて出かけた。
ぐにゃぐにゃと車では通れないような
時間が止まったような とっておきの路地裏を
巡ってゆくことにする。
 
自分の足音のリズムを聞く。
秋の虫のチチチッチチチッと鳴くのに歩調を合わせていることに気が付く
手を振る衣擦れの音がそれにブラッシングのスネアドラムを添える
公園のトウカエデの大木の下の枯葉を踏みしだく乾いた音
耳朶を切る軽い風の音
自分の発する音が
自分の立っているところの座標を
しっかりと、今、に戻してくれたことに
ビックリした。
 
きっと私たちは自分の音を持っていることを忘れているだけで
犬や猫が飼い主の足音を聞き分けるように
自分で自分の音を聞いて
それを「自分だ!」と判断しているのだと思う。
それは日常的な安心感や安定感に大きな影響を及ぼしていると感じた。
きっと、独り言やため息だって、そうだ。
 
 
今年の永い秋雨は残暑をすっ飛ばして永くて寒かった。
季節感を失い、家屋の中に閉じ込められ
身体を動かさずに過ごしてきた。
日常の音の大半は雨の音、だったからだろうか
こんな散歩で音から情動のバランスの回復を実感したのかもしれない。
 
何週間かぶりの快晴は夕方にさしかかっている。
夕日に羽虫が飛び交う、逆行が美しく時間を忘れる。
家々の庭先に何気なく置かれている植木鉢に
秋の花がちょんぼりと咲いている。
鉢や手入れのされかたから
家々なりの「大切」が伝わってくる。
最近そういうものの発する
いじらしいような美しさ、に弱い。
 
昔は、個人商店の店先をブラブラと流しながら歩いてみるだけで
人々の営みの多様性に目や心を楽しませることができたが
生活で見かけるものはこの20年でものすごく画一化された。
 
家々も庭先から住む人が想像できるくらい開放的で
おもしろかった
 
今は、あらゆる情報が外からわからなくなってきている。
これも個人情報保護時代の反映なのだろうか。
なので
生活の端っこから伸びているところに見え隠れする
いじらしいような美しさ、にしか
昔のような喜びを見いだせなくなってしまった。
 
とっておきの路地を抜ける出口のあたりで
換気扇から煮魚の匂いがした。
玄関脇に、卵の殻を半分にしたのを伏せたものが
ピンクのコスモスの揺れる植木鉢に並んでいる。
庭先に今は主のない手作りの犬小屋
ペンキで犬の名前
その人しか持っていないフォントは
犬への大切な思いが
時と共に閉じ込められている。
美しい、と思う。
胸を突き上げるものがある。
 
だんだんと、
大通りの車の音が凄んで聞こえてきた。
 

2020/09/11 遠い火

資料を片付けていたら、ハラリとタック紙が落ちた。
何だろうと拾ってみると、俳句が書いてある。
<夏の闇 スターマインの 一人咳>

そうだ、昨年の夏、ひどい夏風邪をひいていたのだった。
すっかり忘れていた。
ダルくて寝床についても、ひどい咳で眠れず、
ヒマをもてあましての俳句をひねりひねりし、
メモしておいたのであった。
スターマインは、花火大会の花形、連発の仕掛け花火のこと。
そんな激しい咳だった。(これがファクターXだったりして)
奇しくも、
近隣の花火大会の音だけが盛大に聞こえてい、
振動が家を震わせ、それがまた病身に響いた。
2020年今年はコロナ禍で、近隣地域や遊園地の
週末ごとの真夏の夜を震わす花火大会の音は
一つも聞こえなかった。

やはりこの季節が苦手なのだろう。
今年の猛暑の疲れが一気にでてきて、遅めの夏休みにした。
昼寝床で本のページを繰りながら
恐ろしい睡魔が断続的に襲ってきてページを閉じ眠る。
そんなことを何度も繰り返す。
いくら寝ても寝ても眠い。
うつらうつら繰っているページには
古の日本の祭り風景が納められている。

芳賀日出男著「神さまたちの季節」角川ソフィア文庫。
昭和20年~30年代の日本各地の祭りを巡る写真とエッセイ。
昭和40年代の高度経済成長でガラガラと崩壊する古き日本
の直前の信仰の姿が白黒写真に収められている。

今は便利な時代なので、
写っている祭りの現在とを見比べることができる。

もちろん、別の写真家のフィルターを通していることの違いは大きい。
が、同じ祭りの現在の姿には、純で無垢で一途なもの、が
決定的に欠けてしまっているように感じた。

<遠い日は 水面に映る 花火かな>

花火であって花火でないような、
だんだんと色や形、音さえあやふやになり
温度さえわからない。
しかし、それは確かにあったのだ、
というみずみずしい確信だけは残ってある。

そんな感覚に近い。

本書にとりあげられている祭りの一つに
伊勢宮の田植えがある。早乙女の姿がとても美しい。
戦中も変わりなく続けられていたと書かれてあるが、
今年、コロナではじめて中止となったようだ。
理解できるが、
きっとこういう時にこそ行ったのが祭りの起源ではないか、
とも思う。
もはや神の力を一途に信じていないのだ。

そんな、おとぎ話となってしまった美しい日本の祭りの写真が
夢とうつつの間で何度も揺れて
段々と気持ちが軽く清浄になって
心身の疲れが癒されていった。
そして最後には、これほど気持ちの良い眠りは久しぶり、
といった深い眠りに落ちた。

たぶん、心の解毒も必要だったのだろう。

今、普通の生活の何処で何に
純で無垢で一途を見ることができるのだろうか? 
(パラスポーツには数少ないソレを感じるが)
「狂」「極」も近いけど、
もっと肩の力の入らない一途が
もっと身近に沢山あふれていたように思うのだけど。。。

<水に落つ 花火の玉の 沈む影>

 

2020/08/03 「びゃく」の話

「びゃくがくんじまってよぉ、、、」
地元の75,6歳になるオヤジさんの口からでたコトバに
おもわず耳を疑う。

とっくに死に絶えたと思われていた
文献でしか見たことがない「コトバ」に
まさかの地元で、生きた言葉として出会うとは!!
図鑑で眺めていた日本オオカミが
山深いポツンと一軒屋の庭先で飼われているのを見つけたら
きっとこんなだろう。
すぐに、民俗学的ななんともいえない感動が
込みあがってきて興奮した。

「びゃく」は標準語で「山崩れ、山津波、がけ崩れ」で
「山崩れする」動詞化すると「びゃくがくむ」となる。
南関東(甲州などでも)では古代から使われているが、
現代の標準語圏では使うことは、ほぼ無いだろう。
(少なくとも私は聞いたことも見たこともなかった。)
しかし、山崩れの歴史は、
地名として小字などに変形して残っていることがあるようで
「びゃく」→「びゃ」→「じゃ」さらには「ざ」
のように変形していることが多く
「じゃ」には「蛇」の漢字をあてて残っていたりする。

私が話しを聞いたのも、屋号に「蛇」がつく家の主だった。
(漢字は「蛇」だが発音は「ざ」に変化している)
かつての家屋の前には、古くからのがけ崩れの跡が見えたとのこと。
「びゃく」の変化に違いない。
立川の工房の前にある「残堀(ざんぼり)川」は
元の名は「じゃっぼり川」で蛇が大暴れをして掘った川との伝説が残る。
工房は、立川断層の真上にある。
断層の地割れで出来た川であることが想像される。
「びゃく」が掘った川であろう。

不思議なことに、「びゃく」の跡には神社や祠があることが多い。
巨大なエネルギーを崇拝の対象としたのか、
「天地開闢」のように竜の神話とむすびついているのか、
武蔵村山に残るダイダラボッチの伝説と関係するのか、
あるいは厄災への警告や負の記憶、封じ、として残したのか、
古代人の(きっとある特定の部族集団の)意識まで降りていかないと
その真意はわからない。
単純に、「びゃく」の地帯が、
大地が動いている、のが見える、ことで神秘を感じ、
それを神の啓示ととらえた、ということは容易に想像できる。

しかし、自分はこう想像したい。
私の地元の大きな「びゃく」の跡の多くは棚田になっている。
人々は永い年月をかけて、人間に恵をもたらす田に変えていった。
山土は肥沃だったのかもしれない。
「びゃくがくむ」ところは水もほとばしり出ただろう。
荒ぶる破壊の神は、やがて稲を実らせる豊穣の神に変化していったのか?
それとも、そうなることを古代人が経験的に知っていたのかもしれない。
そういった崇拝の対象として祭った。

ナイルやガンジスやユーフラテスなどの大きな河が
洪水により豊穣をもたらすように。
津波が海を富ますように。

破壊の痛みに耐えながら、コツコツと修復をし、
また1から、を忍耐強く繰り返してきた
人間の歴史の教科書に載らない営み。
そんな歴史を私も含め、今の今も繰り返している。

だから、だから、なのだけど、
破壊が再生と豊穣に繋がるのだと
強く信じたい。
人々が信じて進んできた足跡を近くに感じたい。

 

2020/05/22 新コロナ禍第一波終息と天候の話

今年は、2010年の季候にそっくり。
早い春、かと思えば桜に雪、1月くらい先走りの速さで季節は進み、ダラダラと
ながい春が続くが、連休のあたりには急に初夏になる。
そして、風が強く、決まって夕方天気は急変し驟雨。
ということは、猛暑が来るのか?

2020年、新コロナの禍での緊急事態宣言という状況下、
なんとなく重たく張り詰めた世相の中で空を眺め、雲を追い、
花や月の移ろいをぼんやりと他人事のような気分で眺めている、
2010年のように。
2010年春、近親者が癌を患い、末期と知らされ、
手術はしたものの余命宣告があり、
半年の間その看病や手伝いに明け暮れた。
2010年も2020年も、命とは何か、を思いつめ、
それが最優先される生活下におかれた。

2010年にリンクしてくる今年の天候が、なかなかキビシイのであって
新コロナの自粛がそうさせているわけではないと思う。
普段の生活が自粛生活のようなものだったことに気づき
愕然としているくらいなのだから。
しかも、幸い近親者には新コロナに感染し苦しんでいる人が居ない。
気の持ちようで、どんなチャンネルにも切り替えられる。
でも、フッと気を抜いて息を吐いたとき、
天候が枕詞のように
抜き差しならない緊張感のスイッチを入れてきて
重たい空気を吸い込んでしまう。

「天候」に気持ちが大きく左右される、ということで
今年はおもしろいことを聞いた。

たしか、お天気キャスターの森田さんだったと思う。
今年の冬の暖冬は「平安時代」と同じ、だという。
実は、奈良平安時代~室町あたりまで温暖な気候だったというのだ。
江戸~昭和は寒かったらしい。

古い歴史、には文献やモノから分け入るしかないのだけど
気温という現代と共通の定規で記述がないこともあって、
今までその時代の天候など気にもとめたことがなかった。

なんとなく今の時代の天候の感覚で歴史を眺めていた。

枕草子の「冬はつとめて。。。」など、
手がかじかみそうな霜の降りた奈良京都の盆地特有の
骨に沁みる寒さを想定して読んでいたので、
すごい痩せ我慢の美学!などと思ったものだった。
室町時代、禅宗が盛んだったのも、まあまあ暖かだったら
座り続けるのも比較的楽なのだから理解できる。
江戸時代が安定していたのは、
以外と寒かったおかげなのか、とも想像する。
同じ道を芭蕉は寒い時代に歩いて、西行は暖かい時代に歩いた。
鴨長明は暖かい時代に方丈の庵を結び、
良寛は庵の中で寒さに耐え雪を眺めた。。。

見え方が変わってくる。
今まで、自分は寒い時代の人視点なのであった。

これから、暖かい時代がくるようだ。
「静」から「動」の時代になるのかもしれない。
ワサワサがおきそうだ。
この新コロナも、暖かい時代の感染症時代の幕開けなのかもしれない。
(その前からSARS、MARSと始まっていたのだけど)

新コロナの第一波が鎮まろうとしているが
(ひとえに前線で戦ってきた現場の人々、国民の忍耐強さ、疑心暗鬼
の成果だと思う。それ以外に何があろうか?)
マラリアや天狗熱の流行にも本気で今から国は対策をたてておくべきだろう。
(事前対策など、この国で不可能なことは鮮明にわかってしまっているが)

暖か=おおらか、な時代になって欲しいものだ。
暖か=幸せな活気、であって欲しいものだ。

しかし、
これからやってくるアフターコロナ、と言われるだろう時代。
現実の、少し神経質で疎遠な社会的な距離の関係性を
バーチャルなネットで補完する生活が加速して、
アバターが活躍するような世界に
やがて、人間は適応してしまうだろう。
AIと3Dプリンターでものを作る時代が中心にもなる。
「手触り」などの触覚より視覚の偏重が今より加速する。

心はさまよう、であろう。

「今までの人間的な全体性や幸福感」は当然抵抗するだろうが
いつか、前時代の感覚として葬られてしまうかもしれない。
サムライや企業戦士や総中流感や和服の粋、喫煙文化のように。
たとえそうなろうとも、
自分は自分達の時代の感覚を抱いたまま生きて死ぬ。
亡くなった志村けんの笑いの感覚や
岡江久美子さんのお姉さん像なんかと共に。
それでいいのだ。
寒い時代の視点のまま、これからの暖かな時代を見る。
その中で、自分にピンときたものと生きる。
それだけでいいよな?もう。

2020年、一月速い季節の運行の中、
初夏を告げるカッコウだけは同じ5月中旬の早朝に鳴き始めた。
決まった時を告げる時計のようなカッコウ。
ホッと体内時計がリセットされる。

2020/04/08 緊急事態宣言発令

サンテグジュペリの「星の王子さま」を
本棚に探しているのだけれど

見つからない。
あの冒頭の有名な帽子のような絵が何に見えるのか、
というのを確認したいのに。

得体の知れないものを、どう捉えどう感じたり認識するのか、
想像力の翼は果てしなく、個人差が大きい。

この「新コロナ」と言われているSERS,MARSの
コロナウイルスの
異種と思われるウイルスも、
海外の様子を見ると人類滅亡させるような
感染したら死を避けられない

恐ろしい怪物に見えるが、
ちょっと都心から離れた日本の里山の田畑に立つと
都会で流行っているインフルエンザの強いの、
のようにしか感じない。

ヨーロッパで都市封鎖など過激な対策が持ち出されているわりには
感染拡大が止まらない。
と思えば、日本は比較的人が自由に移動している割に、
統計的には感染拡大が鈍く見える。
(絶対検査数が非常に少ないことが原因とわかってきているけど
死亡者数は信頼できるように個人的には今のところ思っているが。)

ダイアモンドプリンセス号を接岸しても完全隔離していたのに、
軽症者は自宅療養が推奨されたりする。
(家族に感染して感染拡大リスクは増えないのだろうか?)

では、自宅でじっとしていれば治るものなのか?
と思えば、志村けんさんが罹患して亡くなったりする。

免疫力をつければ罹患しない、ようなことが言われつつ

免疫力ハンパなさそうなスポーツ選手の罹患が後を絶たない。

専門家は早い段階から布マスクでは効果が無い、
と言い切っているのに、

政府は布マスクを2枚配布するらしい。

肉券や魚券を配るとか30万を配布と言ってみたり。

学校を休校したかと思えば、
感染拡大の予感が濃厚になってから再開を決めてみたり。
と同時に若者へ移動の自粛を呼びかけてみたり。

3蜜を避けるというが、
それを報道するニュースキャスターやコメンテーターは
並んで座っている。

。。。。。
こんな矛盾だらけの情報が、
各々の想像力の翼を勝手に広げさせた結果が

日本のイビツな「新コロナショック」をつくりあげているように思う。

訝りつつ最悪の怪物を想定する老人達。
訝りつつ、まさか自分が、と風邪くらいにしか想像しない若者。

では、果たしてその実態は?
「新コロナ」というウイルスは何なのだろうか?

ウイルスはウイルスである。
感染力は同じウイルスであるインフルエンザに似ているらしい。
しかし、体内に入ってから3週間程度滞在するのは
インフルより手強い。

症状が出ない人と出る人が居る。
呼吸器に症状がでる。
重篤になったり死亡する確率は10パーセント程度か。
今のところ、抗体やワクチンは無い。
薬は、副作用は自分持ちだが
アビガンなど新型インフル用のが効くらしい。

(効果の細かい数字の発表は無い。)

と、このようなものであろう。

ということは、今のところ人間が防ぐ手立てはなく
ウイルスが何らかの条件で消滅してくれるまで
ボートの底に開いた穴から水が浸入してくるのを手で塞いだり
バケツで掻き出すようにしか
新コロナウイルスと向き合う方法が無い。
ということだろう。
極端な言い方をすれば、
船が沈む時間を遅らせることしかできなくて、
嵐にもあわず運良く砂浜に乗り上げて助かることを祈るのみ。
という状態だ。

もちろん、穴が小さいうちに塞げれば、リスクは回避できる。
穴が大きくなると、一気に水は流れ込んでくる。
そういった単純な理屈の中に居るのだろう。
船底の現場はそれがよく見えているが、
上の乗客は想像するしかない。

その時、最も大事なのは、怖いかもしれないが
現場の状況の正しい情報をしっかり見せること。
冷静で的確な指示。
決断のスピード。
なのだと思う。
そうすれば想像力の怪物は生まれない。

4月8日0時 7都府県に非常事態宣言発令される。
穴を塞ぐには大きくなりすぎた感があるが
人が人と会わないことが、
ウイルスにとって致命的なダメージであり

それが船底の穴を塞ぐ、たった一つの叡智である。
それができなければ
全員感染するのを待つか、
ウイルスが消滅するのを待つしかなくなる。

ただし、全員、自己免疫という浮き輪を1つ持っている。
地球の一匹の動物となって
その浮き輪にしがみついて生き残るしかない。

外は、美しく咲く春の花が咲き乱れている。
そんな花々もウイルスや病気と日々闘って生きている。
彼等には薬を施してくれる医者もない。
野生の鳥も獣も。
それもまた共生。
自然は甘ちょろい共生ではない。

などと考えながら、
3月は花見客もない川沿いの桜並木を見ながら車で通勤していた。
「サイドミラー 過去を舞い散る 桜かな」

私が想像した「新コロナ」はそんな自然の一部。
あ、もう一つ
根拠のある想像を付け足しておく。
私の「浮き輪」である自己免疫には、
私の先祖が、さらに、アウストラロピテクスや
更にさかのぼって、海の小さな微生物であったころからの
すべての時代の私が、いくつもの病気と戦って打ち勝ってきた
沢山の勲章が刻みこまれている。
壮大な歴史が刻まれた救命浮き輪である。
という想像です。
地球に存在しはじめた時からの
「私」の全存在をかけた浮き輪なのだ!!!

2020/3/14 明日なき世界

外は曇天模様の空、
吹き荒れている春の大風が、
工房のシャッターを激しく殴っているような音が
常に心をザワザワさせる。
歴史に残る暖冬とかで1ヶ月速い速度で季節が巡ってゆく。

ふいにラジオからRCサクセションの「明日なき世界」が流れてきて、突然、涙が溢れてきた。
何度もこの曲を聴いたことがあるのに、、、自分の感情に戸惑った。
すごく悲しくなったような、寂しくなったような、やるせないような、なんだろうこの感情は?。。。
もう、もうこうなったら、誰も見ていないし、泣くにまかせてフルコーラスを聞いた。

時は9年目を迎える3・11間近、奇しくも新コロナの騒動で戒厳令のような世相が重なり、
原発が爆発した時のあの絶望感を思い出していることもあったと思う。


あの時の「世界が無くなる」という絶望感を拭い去ることはできない。

どこにも逃げようがない。
一縷の希望も見出せない。
終わり。という絶望。
自分だけがこの世から消える「死」に望む絶望とは違う。
生きとし生けるものの痕跡さえも消滅するという、完全な無。
あるいは、汚染された世界で死滅してゆく地獄。

あの日自分は一度死んだのだ、と今になって思う。
少なくとも、昨日までの自分は死んだ。

ひたすら続く余震の中、
春の大風が毎日のように吹いた。
放射能を大量に含んだ風だ。
その毎日の風向きをいち早くネット上に好評したのは日本政府以外の国だった。
国や東電はメルトダウンを隠しに隠した。
御用科学者、というのを知ったのもこの時だった。
「ただちに身体に影響はありません」
時の行政や政治家は放射能汚染についてそんな答弁を繰り返した。

とっくにメルトダウンしていたのに。
その為に避難が遅れた人が沢山出た。
汚染された食物を食べた人が沢山出た。
外を歩きまわって放射能を浴びた人が沢山出た。
身体に影響のないだろう放射能の基準値が、
勝手にどんどん変更されて何倍にも上がった

〈そんなことより守りたかったものは何???〉

時の都知事石原慎太郎が涙で見送った東京消防庁で組織された決死隊の、
自衛隊のヘリの、
焼け石に水のような散水が、
テレビから流れた。 
映っていたのは「絶望」だと
誰もが思った。

必死で食い止めていた原発の現場の人々に激励と声援を送ったのは
海外メディアであって
日本のメディアは冷ややかであった。

計画停電の暗い電車の車内の長椅子に、うつ伏せに寝転がっている若者を見た。
誰も声をかけることもなかった。
東北から東京に単身でてきている学生ではないか、と即座に思ったからだ。
かける言葉がみつからない。
新コロナ騒動のマスクやトイレットペーパーのように、
米が買占められて店頭から消えた。
「お米が無くなるらしいわよ」
「あら、じゃあ私も買っておこうかしら」
3人のおばちゃんが米を買っていった。
自転車の荷台に何袋も米袋を括り付け、
鬼の形相でペダルを漕いで去っていった。
明日なんて無いのかもしれないのに。。。

ガソリンスタンドは長蛇の列。
何時でも避難できるようにと、ガソリンを入れたい人が殺到した。

西へ西へ。人は逃げた。。。。

そんな記憶がぶわぁっと一気に噴出してくる。

あれから9年。
東京ではまるで何事もなかったかのような暮らしがある。
ように見えるけど。
その質は、大きく変わっていると感じる。

あきらめ。
が、じんわりと浸透した世の中になったと思う。
権力にも、生活にも、未来にも、無尽蔵の希望を見出すことができない、なりに
今だけ、今日だけを楽しそうに日々を暮らしている。
不満を感じている人々の攻撃の矛先は
自由で充たされている誰かで、
その人の自由を奪うこと、に向いている気がしてならない。
本当に向かいあうべき対象はもっと大きいはずだ。
言論の自由も、アートの自由も、丁寧に摘み取られていって、
旗を振る人も指し示す人も表には出てこられなくなった。
仲間割れをしてはいけない。
自分の代わりに大きなものと戦っている人を貶めてはいけない。

それは、自分達の自由をもっと奪うことに繋がっていくから。
管理者(だと思っている権力)が最も嫌うのが「自由」。

そんな考えをめぐらしながら、ため息をついた。
そして、「明日なき世界」を、
賛美歌が降ってくるかのような気持ちで聴いたのだと気がついた。
ソウルフルな恰幅のよい黒人の女性が身体をゆらしながら歌う賛美歌。
まさか、そんな気持ちになる日が来るなんて、
昨日の自分には想像すらできなかった。
この自由を謳歌するような慈愛に満ちた歌声に包まれて、
自由度の高い明日が確実にあった昨日の日々を思って涙が流れたのかもしれない。
。。。。。
それでもまだ、あきらめながらでも、
文明があって、人々が生きて生活がある明日がやって来る世界に居ることは
奇跡なのだと思いながら毎日を過ごしている。


2019/12/28  令和元年暮れる

 

 

12月も半ばだというのに、温暖化のせいだろう、ここ武蔵野の雑木林の樹々に落葉せずに
名残の紅葉が楽しめていた。なので、なんとなく気分は晩秋のまま年の瀬に突入してしまった。
でも年末なのだ!!がんばって暗示にかける。

11月末、夜が明けると、庭の萩がまっ黄色に色づいてこんもりとした小山となっていた。
いちだんと不順だった天候の為か、毎年春と秋にたわわな花房をつけていたのに、
今年の秋は悲しいくらいしょんぼりとした花が咲いたきりだった。
しかし、光輝く紅葉をして最後に美しく魅せた。

かと思えば、10年前くらいだったか、地面に赤ん坊の掌のような芽をだしていた実生のモミジを
植木鉢に移して育てていて、今は胸の高さくらいになっているのだが、
毎年、夏の暑さにやられてか、紅葉まじかでうどん粉病のように葉が白く縮れあがり
上手に紅葉することがなかった。しかし、今年はじめて見事にキレイに紅葉した。
ちょっと拝借、一枝を部屋に飾った。
10年、、、そういうものかぁ~と、感慨深く眺めては励まされたり、
よかったなぁ~、とまったく一方通行の励ましの言葉をかけたりしている。
葉に少し残っていたグリーンは部屋の中でも日に日に山気を帯び色づいてゆく。

今年は、年始に想像もしなかった慌しい1年だった。2回も展示会を行ったことや、
洪、日の友好150周年記念に関わったことも、まったく想像しなかった。

金沢に出張したり、コレできるのか?とドキドキしながらの仕事が多く、
疲弊はしたけれど、人との交流は充実して楽しく力をもらった。そんな一年だった。
悪いことがなければ上等じゃないか。最近はそう思うようになっている。
それがすなわち、良いこと、なんじゃないかと。
やっぱり毎年、心にズシンとくる、悲しいことは起きるから。
取引先で閉業してしまったところが今年たてつづけに3軒。
挨拶のあったのは1軒、他は知らない間に廃業してしまっていた。
つらい思いで、振り込み先登録を消去する。
勢いのあった頃の溌剌と働く彼等の顔を思い出す。
皆、希望を見つけて新しい生活をはじめられていることを祈ってやまない。
天災も毎年のようにおきる。
ここにきて、ジワジワと(なぜだろうか?)身近に19号の被害(報道よりずっとヒドイ)が
伝わってきていることは確か。こちらも胸が痛む。

人の不幸は蜜の味、という人が沢山いることはわかっているけれど、
自分は誰かが勢いよくがんばっている姿の方にはげまされる。
水や空気のように、人だって流れや動きに乗って生きていると思う。
生きていれば、世間様に波や風が起きている。
誰かが不幸に陥ることや居なくなると、凹みができ、そこに淀みが生まれ、
何か小さなゴミが詰まり、やがて大きな堰のようなものができる。
威勢が良いと小さな不幸など勢いで流してしまう。
それは威勢の良い人に触れることでも同じような効果があると思う。

日本のチームスポーツでも強いチームは特にそんな気質を体現していると思う。
今年はラグビーのワールドカップがそんな気持ちの良い「流れ」を見せてくれていたと感じた。
その流れの「質感」は、昔そこらじゅうに沢山あったように思うのだが。。。

デジタル化が人々の心情にも浸透する中で、
情動の流れを現す、「士気」だとか、「威勢」だとかが、
前時代的なものとして軽視されはじめているように感じる。
でも、人間には血液やリンパだってグルグル体内を流れているのだし、
心臓の鼓動のリズムだって血圧だって何かに反応して変わり続けているのだ。
流れの摂理から離れることはできないはずだと思う。

自分を省みると、そういった勢いのある人間ではない。
淡々と細々とした流れだ。血圧も低い。
だからか、皆を押し上げるような太々とした「勢い」に憧れたりもする。応援したくなる。
でもその勢いが人を押しのけて引きづり降ろし自分だけが得をすれば良いような陰険なものには、
断じて反抗的なのだが。。。

さて、来年はどんな1年だろうか?
天候の乱気流が再び襲い来る、と構えていて間違いないだろう。
その流れの不安定はきっと世界情勢に影響する。
(そうならないことを心から祈っている)

それでも、10年先、100年先に届くような良い流れができるように、
小さな努力を続けていかなくてはならないのだろうと思う。

生きているのだから。

実生のモミジの紅葉を眺めながら、ちょこっとだけ未来のことを思った。
令和元年暮れ。

2019/10/02 夏から秋へ

今年の夏を振り返れば、暑かったがとても晴れやかな気分の夏だったと思う。
たぶん、こんな心持ちになる夏は、きっと、もう二度とこないだろう。
予想もしなかった最高の場所で、
今までの仕事の純粋な部分を俯瞰する展示をする機会を得て、
自分が大切してきたことを確認できたことも大きかったが、
総じて、友人達、恩人との心の交流が、夏のように暑かった。
一期一会、年齢(自分も周りも)時代も環境もピッタリと合った、たった一瞬の煌きが、
いくつも同時におとづれた不思議な夏だった。
節目の50歳の終わりの夏のご褒美。

しかし、夏は終わった。

舞い狂う 鬼神の放つ 野分かな

令和元年9月8日の夜中に通過した台風15号が去った翌朝9日東京多摩は
雨上がりの澄んだ光線のまぶしい快晴。
台風が残した熱帯じみた湿度のせいで残暑はきびしかったが、
特に何事もなかったような朝を迎えた。
爆睡していたせいで、風の音さえも聞こえなかった自分にとって、
台風が通過した痕跡は、アスファルト道路一面に散り敷かれた緑の濡れ落ち葉だけであった。
箒で掃くのに苦労しながら道路に貼り付く葉っぱをかき集めてから、仕事場へむかう。
車道に、折れた樹木はない。
車の流れもスムーズで、ありきたりの日常そのものだった。
仕事場も変わりなかった。

一方、実家は台風直撃の三浦半島にある。
朝のラジオのニュースを聞くかぎり、
横横の高速が止まっているのと、逗子久里浜間の横須賀線が止まっている程度しか情報は入らなかったので、
こちらと同じ程度だろうとタカをくくった。(実際、実家の一帯はほとんど被害はなかったが。)

夕方になって、千葉の大規模停電のニュースがテロップで流れはじめ、
その中に実家の市町村が入ってきてびっくりしたが、
調べてみると離れたごく一部の地域に限定されていた。

数日後、実家に帰ってみて、「被害なかったの?」と問うと、
親は一瞬「はっ?何の」という顔をして、ああ、と台風に思い当たるぐらいの状況であった。
今回の台風は北東の風で北側の山が風をさえぎって実家を守ってくれたようなのだ。

町内を散策しても台風の「た」の字も見当たらないくらいの状態だったが、
たった一箇所だけ丘と谷間で形成される農地がやられているのを見た。

北東が開けた丘になっていて西が深い谷間になっている地形に
果実などの樹々が植えられた農地なので、
北東の風が思いっきり吹きぬけたと思われる。

それが、ちょっと異様な光景だった。

象の群れが駆け抜けたように、10mほどの巾の道ができているのだ。
道といっても樹が根元から折れ、葉はすべて落ち、草まで風の方角にうち折れているが、
その両脇は何ごともなかったようなので、道ができたように見える。

その道は崖を駆け下り、川の向こう岸に当たって、樹林を破壊し、
行き場をなくして左右に分かれて跳ね返り巻き込んで消えている。
勢いの止められぬ巨大動物の群れが崖にぶち当たった様相そのものの光景だった。
その1週間前、祭り神輿が獣道をクロスするようにうねって通っていった光景が重なった。
不動明王を奉った祭り神輿だった。身体に「畏れ」が走った。不動明王の火炎の渦のイメージが
頭から離れない。

その紅の炎の幻影を何事もなかったように赤とんぼがスイスイと横切ってゆく。

赤とんぼ 飛び立つ跡の 瓦礫かな

待っているのは秋。
夏を壊して前に進む。
長いか短いかもわからないが、人生も秋に突入する。

2019/07/10 枇杷

6月の終わりのこと。知り合いのお母さんからビワを沢山いただいた。

山の畑にあるビワの木で、無農薬だし、洗わなくていいのよ、食べてごらん、
ティッシュの箱をタンと山盛りのビワの横に置いて、さぁ、という顔をした。

ビワのヘタのところからバナナの皮でも剥く様にペラリペラリと
何枚か淡いオレンジ色の薄い皮を剥いたら汁が指をしたたり流れた。
あっ!武田百合子のエッセイ「枇杷」と思いだしながら、
武田泰淳ほど特徴のない自分の指を流れるビワの汁をティッシュで拭いて、一口ほおばる。
二口でなくなってしまう小ぶりの実だったが、種が小さくて、果肉が多く、
売っているビワのようなパサパサしたようなスポンジ感がまったくなかった。
薄くただよう甘みとわずかな酸味のような青さが、遠い少年時代を思い出させる。
溢れて一気に滴り落ちたさわやかな感情が、鬱々とした梅雨の気分を瞬時に吹き飛ばした。
面食らったような驚きの表情をしたのだろう、お母さんは、ね、という顔でうなずいて、
心を見透かしたように、売っているビワなんて食べるところないでしょ、と言って笑った。
黄桃のような質感の果肉は、とれたての畑の暖かな光の温度を持っていた。手に、口に馴染んだ。
傷や黒く痛んだシミがあっても、皮の下には美しい果肉があり、剥いてはスルスルと夢中で食べた。
机の上には、いつのまにかティッシュと皮の大きな塊がおにぎりのようになってしまっていて、
ビワとは、こういった果実であったのかと、驚きを持ってその山を眺めた。

帰り際に、白いプラスチックのカゴいっぱいにビワをもらった。
そして、ビワの実のとり方を教えてくれた。
傘をオチョコにしてね、ビワの木の下に立つの、もう一人が木をゆするのよ。
なんだか、少し荒っぽいような、でも、ほほえましいような光景が目に浮かんで笑った。
お母さんも笑顔で見送ってくれた。

数日して、車のいつもの帰り道の沿道に、梅雨空に傘をオチョコに持っている幼い女の子をみかけた。
頭上には実をたわわに実らせた太いビワの木があった。その影からおねえちゃんらしい子とお母さんが見えた。
通り過ぎて、バックミラー越しにお母さんが木に手をかけるのが見えたが、車がカーブにさしかかってミラーから消えた。

ほんとうだったんだ!!想像していたよりも、ずっと幸せそうな収穫風景だった。
手をベッタベタにしてビワの実を夢中でほおばる姉妹の顔を想像した。それを見守るお母さんの顔も。
ツバメが車を追い越して梅雨空に舞い上がり鋭い線を描いて飛んだ。
その線からペラリと雨雲が剥けて、青空を見たような、ビワを一口ほおばったような爽快な気分で
アクセルを踏みこんだ。

2019/05/19 令和元年に思う

つまり時代はナマモノだ、ということをこれからつらつらと綴る。
平成から令和へ改元されて世の中はゴールデンウィークに急ごしらえの旗日を加えた前代未聞の10連休となった。
テレビやラジオでは盛んに平成を振り返る番組を流している。
家の外はゴルフボール大の雹が、バケツをひっくりかえしたような勢いで轟音と共に降っている。
令和のはじまりである。

平成元年を二十歳で迎え、五十で令和を迎えた自分としては、まさに平成時代の社会のど真ん中を生き、
作った世代ということになる。何の感慨もないのだけれど、句読点を打つような気持ちにはやはりなる。
だから「時代」についても少し考えたりする。

時代、というものを感じたり考えたりする時、人が身にまとっている時代の雰囲気ほど強いものはない、
と最近実感する。
歳を重ね、人が亡くなって、ぱっと時代の大事な芯というか魂と言ってもいいようなものが
消えてしまうような感覚体験を何度もするようになったからだ。
その時代に選ばれ活躍した俳優やロックスター、芸術家や学者、などの有名人に限らずとも、
近所のおじさんでも、失えば、きっと、2度と同じ人は出てこない。
その人の息づいてきた時代、会ってきた人、触れてきたモノ、体験、はたまた気象や風土までを
克明に再現してなぞらない限り、その人は再現できないに違いない。
たとえ、クローン技術が発達しても再現は無理だろう。
それほど、一人一人の纏っている全体は大きいと感じる。
そこに、「時代という服」もある。

不思議なことに、ちょっとした言葉遣いだったり間だったり、発声だったり、のディテールで、時代が見えてしまう。
それが顕著なのが歌だったり歌手だったりだと思う。
最近は、モノマネのクオリティーが本人かと間違うほど異常に高くなっているけれど、
どんなに似ていても何かが決定的に違う。
心に響く部分が違うというか、感動する場所が違っている。
心のセンサーがが勝手に、そんな微妙な違いを敏感に感じとってしまっている。
魂まで似せられないというのもあるが、何か、あの時代の、あの感じ、が、欠けているような、と感じることが多い。
他に、時代もののドラマなどのセットのディテールのちょっとした小物の使い方の違和感に気がつき、
興ざめになってしまうこともある。

それほど、人間の時と場所を見極める感覚には鋭いところがある。
特に自分の経験して通過してきたところには非常にきびしく反応するようできているような気がする。

ちょっと種類は違うのだけど時代の中で鋭く磨かれる感覚というのもある。
それはその時代に趨勢を極めたものに触れ続けて磨かれる感性感覚。
なので同じ時代人の多くが共有していることが多い。言葉にしないでも通じる感覚。

しかし、鋭く磨れた感覚は、鈍化するのもすごく速いようにも感じる。
鋭角なのに脆い刃物のようなもので、砥石に常にさらされて研磨されていないと鋭さが保てない。
語学に堪能な人などは、パッとわかると思う。使わないとあっという間にスキルが落ちる。
とおなじように、あっというまに切れなくなる。

過ぎ去った時代とともに鈍化した感覚の代表は、和服のセンス、邦楽の感受性。
こちら側の感覚センサーがまったくおかしなことになってきているようだ。あまりに日常に和服に触れなかったことで
感覚器官が弱ってかなり雑になってしまった。
かの時代のかっこいい和服の着こなしは、ちょっとやそっとじゃ真似できない。
「粋」な感覚も厳密にはほとんど生きてはいないように思う。
明治生まれの人が居た時代を生きてきた最後の世代だから知ってはいるのだ、けれど、、、。
何百年にもわたって磨き上げてきた和服へ感性は急激に衰微して、たぶん、もどることはないだろう。

モノは残る。
しかし、平成の最後はまったく新しい感覚の時代がはじまっていて、
モノに対する憧れや執着のない世代というのが出現している。
バーチャルの充実がリアルにとって変ろうとしていて、リアルが時代とともに衰微しつつある。
たぶん、世はバーチャルがメインになるだろう。
なので、当然モノにまつわる人間のあらゆるセンサーは鈍化するだろう。
今まで人類が体験したことのない世界が来つつある。
人間は骨格どころか影の時代になりつつあるということかもしれない。
脳を騙して満足させることへの偏重。
その時、リアルな人の感覚はどうなってしまうのか、とても心配になる。

さらにAIの出現は、考えて選択すること、の感覚を人間から奪っていくだろうから、
考えることにまつわる何もかもの鈍化が起こるはずだ。
仕事がなくなる云々よりもそちらの方が極めて深刻な事態を招くのではなかろうか?

令和、という時代が幸せな時代であろうなどと楽観的に思っている人などまず居ないだろう。
私は恐ろしい予感しかしない。自分の感じる恐ろしさは、
その時代のど真ん中を生きてゆく人には、何もかも普通の出来事で新しい感覚の幸福なのかもしれないが。。。
自分は前時代的な感覚で、その時代を生きてゆく。
私の中にある昭和、平成、そして触れて出会ってきた明治大正時代の人々の面影を纏って。
それを煮詰めて前時代的感覚の残り香を残すだろう。

何億年に渡って人類が眺めてきた月の景色も変ろうとしている。
無常迅速とはわかっていながら、月はただ黙って見おろしていて欲しいし、
毎年桜は咲いて散って欲しい。
あの頃の誰かが見た同じものを見て同じことを感じたい。
激しく流れる時代の中で行きつ戻りつできる大きな普遍の波止場は必要だと思う。
その普遍は麗しい自然の中にしかないように感じるのだけれど。。。
それもバーチャルが満たしてくれるようになるのだろうか?
きっとそれに満足できない実感ある感覚を自分は備えてしまっている。
そんな時代の人なのだ。

ところで、あの雹はいったいなんだったんだろう?
道いっぱいにズタズタになった新緑の葉が散っていてあぜんとしたが
数日経って、傷んだ木々も地面の草々も勢いを取り戻した。
しかし、雹で散り、穴の空いた葉のせいで、昨日と違う形の木漏れ日が差している。
新しい時代にも小さな希望もあろう、と小さく思った。
こもれびや 雹の開けたる 穴模様
なんて駄句など詠みながら。

2019/03/08 住まう2

灯りがともると、ただの建築物であった家が急に住まいの顔になった。
一遍に、その家に住んでいるかのような、和んだ心持ちになった。

冬から早春のしばらくの間、新築現場に入っていた。

来る日も来る日も、真っ暗な建物の中で、工事用の蛍光灯ランプを点け、作業をしていた。
雪のそぼ降る日、同じ過酷な状況を共にしたペンキ屋さんが見かねて、数灯の蛍光灯を貸してくれた。彼等の頭には登山用のヘッドライトが光っている。涙が出るほどの人の心の温もりを感じた。静かな雪の外からは大工さんが屋根を叩く音が間断なく聞こえている。
違う日、建具屋さんが真っ暗な中仕事をしていたので、今度は自分がランプを貸してあげる。建具屋さんとも戦友のような関係になる。
外気と同じような極寒の現場で、灯りが、明るさだけではない、象徴としての「温もり」の役を担っていたように思う。

 工務店が仕切る現場だと、いつもの顔なじみの職人どうしが阿吽の呼吸で仕事をすすめ、現場も和気藹々としているものだが、そうでない場合、別の職種の職人どうしの交流というものは、ほぼ無い。それぞれが、入れ替わりたち替わり、それぞれの持ち場の仕事をモクモクと仕上げ帰っていく。例えれば、傭兵の寄せ集めの小隊の様相。信じて頼れるのは自分と道具のみ。
そんな中でも、現場に長く居る職人さんがいて、例えば大工さんがそうなのだけど、
そういった人が現場のムードを作っていく。

今回の現場の大工さんは、全体を見れる棟梁格の大工さんが1人居て、感じがてもよかった。
毎回、こめかみがキュンとするほど甘いミルクコーヒーをご馳走してくれる。 言葉のなまりは東北だろうか?いつも、足りない道具はないか?と聞いてくれて、助けてくれた。
この器の大きさ、さりげない気遣い、はどこからくるのだろうか、と思いながら現場で共に時を過ごした。

工期も終盤になって、ふっと、一つの言葉が浮かび上がった。

「良心」

できあがりの良い家を施主に渡すためだけ、
それだけのために、私利を捨て全力をつくしていることに気がついた。

ムードを和ませ、やる気をださせ、助け、時に注意し、無理もし、
それは、たった一つの目的のための、良心、から発しているのだ。

だから、気持ちが良いのだ。
それがただ己だけの意地やプライドだったならば、
協力を拒む気難しい職人もでてくる。
お前は何の為に、仕事をしているんだ?なっ?
棟梁の良心が、自分の良心に問いかけてくる。
薄暗く極寒の殺伐とした現場に、小さな、でも、とても力強い良心の種火がともる。
その棟梁の種火を出入りする職人達が、各々心にもらって仕事をする。
最後には、そんな、イメージができあがった。

いよいよ、家の電燈という電燈が点いた時。
棟梁の蒔いた良心の種火の成果が明るさとなって輝いた。
暖かな良い住まいは、作る人々の良心の結晶でもある。
家の外に漏れた明かりが庭の見事な紅梅をうかびあがらせた。
いつの間にか早春が駆け足でやってきていた。
春も感じぬままだった目がやっと外に開いた。

 

 

 

 

2018/12/03 G.Panda

 

ツイーッ、ツイーッ。あ、メジロの声。
11月5日 待ちに待ったメジロ達が2羽帰ってきた。帰還第一陣だ。

毎年7月、子育てを終えたメジロ達は、挨拶もなく家族で避暑地へと去って行く。
寒いな~と毛布をひっぱりだす頃になると、まだかな、まだかな、といつも蜜やミカンをあげていた窓辺の
カロライナジャスミンの蔓の群の中を覗き込み、和鳥のゼリーなるものを置いてみたりする。

 

メジロは見かけでは個体差がほぼわからない。
しかし、食べ方に個性がある。
決まって蔓につかまりながら逆立ち様に食べる子、
一端近い枝に留まって周囲をうかがってから慎重に近づいて食べる子、
と思えば、ダイレクトに飛んできてガツガツ食べはじめるのも居て、
その食べ方は個体によってたいがい決まった型がある。

食べるのもよそ様に譲ってばかり、食べ終わっても、ぼーっと全身の羽毛をもっさりとふくらませ、
緑の団子のようになってたたずんでこっちを見ていたりするずいぶんおっとりしたのも居て、
実はそれが、お気に入りの1羽。ほんとかわいい。時々思い出したよう、スローモーションで蜜をついばんだりする。

 

そんなかわいいメジロ達の帰って来た日、上野のジャイアントパンダのシャンシャンは、
「笹の葉っぱを横様に口に大量にほおばり溜め、片手でそのほおばった笹の葉の端を束にまとめて左手で握り、串に刺さった焼き鳥を食べるように、食べる」という大人の笹の食べ方をはじめてマスターした。
その時、並んで座っていたお母さんパンダ、シンシンに『ねえ、できたよ見て見て!』といわんばかりに上目遣いで見上げてみせた白目がかわいかった。パンダLOVERのTBSの安住アナウンサーは、これを「笹のしごき食べ」と表現していて、言葉の仕事をされる方!さすが!と感心した。

メジロ達の居ない間のさみしさを埋めたのはシャンシャンの観察だったのだ。
といってもライブカメラでの、で、ナマ のパンダを観にいっているわけではない。。。。半端だ。。。毎日のようにパンダ舎に通い、YouTubeにアップしている「準飼育員」と呼んでもよいホンマもんの見守り隊の存在があるからだ。
一緒の空間で匂いや音、その場の空気感を共有してこそ、パンダとはなんぞ、を声を大にして語る資格がある。

なので、ここから、声をひそめ、ボソボソと半端愛を綴る。

パンダの魅力はその見た目やしぐさが愛らしい、というのは議論の余地がない。
だが、
パンダを人間に置き換えると、コタツに入ってごろごろしている人となんら変らないのである。
しかも、ものぐさで、コタツのまわりの手の届く範囲に食料を置き、なるべく動かず、
ちょっとの距離なら転がって移動するような筋金入りのタイプのものぐさである。

ところがパンダだと、それがちっとも見苦しくないのだ。退廃的な匂いがしない。
むしろ「ピースフル」な気持ちにさせる。

なぜだろう?それはどうもパンダの心の「おおらかさ」からくるように思う。
自然界での天敵(人間以外)の居ない環境が警戒心から開放された心を育んだ、とも言えそうだし、
集団の中で他者の顔色をうかがう必要がない単独行動であることも、影響していそうだ。
でも、永い年月の間に、パンダがその環境を選び取っていったわけだから、
もともとが、おおらかで争いごとが嫌いな種だった、と考えても良いように思う。
でなければ、しかたなく主食を竹や笹にするまで進化しないように思う。
(パンダは雑食性で、腸はまだ草食に完全に適応しきれていない進化の途上なのだそうだ。)

とにもかくにも「存在が平和そのもの」をパンダから感じてしまい、和んでしまう。
見ている顔が垂れパンダになっているかもしれない。
ものぐさでゴロゴロしていられることは本質的には幸せな姿、なのかもしれない、などと考えてしまうのであるが、、、


しかしである、

ものぐさで、グテーっとしていると思いきや、木をガシガシよじ登り、時に人間より速く走り、でんぐり返し、横くるりんパをし、硬質の竹を見事な手捌きで次々と割って食べる、そういった裏切ってくるギャップがパンダにはあるのだ。
世を忍ぶさえないサラリーマンが実はスーパーマンだったみたいな、
否、中国だから呑んだくれのオヤジだと思っていたらカンフーの達人だった、かな。

 

そこで特に注目していまうのが、竹の加工。
親パンダが竹や笹を割って皮を剥ぐ方法は熟練工の技だ。
いつのまにかその無駄のない動きに見入り、引き込まれてしまう。
捕食や狩の仕方を教える動物の姿はよく知るところだが、
パンダのように食材に一手間加えて加工して食べる動物を見るのは、はじめて。
子パンダの頃から〈竹を割って食べる〉ができるわけではないことをシャンシャンを見ていてはじめて知った。
その習得過程が見られるのがおもしろい。

母親は、何も教えない。(人間が感知するレベルでは)
ただ竹や笹をパキパキと食べ続けるのを見せているだけだ。
それを見ながら、子供は遊ぶようにマネをして、だんだんといつのまにか技術を会得してゆく。
特殊技能だけに、あまりのほったらかし教育に、ちょっと不思議だなぁと感じる。
でも待てよ、この感じ、どこか見たことがあるぞ、特別ではないな、と。
身近で、、、あっ!そうだ伝統芸能。
日本では、落語、三味線、踊り、なんでも伝統芸能の伝承は、この方法。
昔の職工もこのパターン。誰も教えない。師匠を真似なさい。感じとりなさい。自分で考えなさい。だ。
先日、映画「日日是好日」を観に行った。原作者の森下典子さんと2002年に仕事をご一緒したことがあり、
その時発売して間もない「日日是好日」の本をいただいたからだ。
(こんなに時を経て、映画化されるなんて。よかったね森下さん!)

物語の中で、入門したての主人公と従妹のミチコさんが型をなぞるだけの稽古の繰り返しに、お茶の達人武田先生に「なぜ」という疑問を投げかける場面が何度かある。先生は、「そういうモノなのよ」とか「型から入るの」「器を作って後で心を入れる」といってようなことで返答してゆく。
主人公は、その本当の意味(自分なりの答え)を、後になって得てゆく。。。
そういった教授方法というのは人類が久遠の昔から繰り返してきた方法だ。
なぜか?伝えるにはそれが一番良い方法だから、に違いない。
学校教育のように先生が積極的に教える教授体系はほんの最近のものであって、まだまだその方法は途上だと思う。
だから「生徒」のあり方も途上であって、教育現場ではいろいろな問題が噴出しているのだと思う。
教育目的が「伝承」ではないので、一概には言えないと思うが。。。ワケのわからなかった数学を詰め込まれた意味が、英語の丸暗記が、この頃になってなんとなくわかるような。
とにかく道具と使い方、をわからないまま持たせてくれたんだなぁ、とか。。。
「頭で理解」と「わかる」が違うこと、とか。。。


そんなことをつらつらと綴っているうちに、シャンシャンはどんどん成長して、よりパンダらしさが増してきて、
独り立ち訓練の段階に入っている。子別れ、親離れ。シャンシャンの、「パンダらしさ」も、見ていて、平和の中にセツナイ気持ちが混じる。ちょっとだけ、<平和>に内在する<たいくつ>を思いだしたりした。。。

 

ライブカメラから眼をあげると、
外は、雨上がりのしっとりとした空気で、紅く濡れた紅葉が光っている。
まぶしい太陽を背に、小石のようなメジロが、右に左に直線を描いてこちら向かってに飛んでくるところだ。

 

2018/10/27  忽然

 

9月11日夏が忽然と消える。
5月からはじまった夏日。雨の降らない連日の猛暑。
毎日がループを繰り返すばかりの永久のような夏。
自分が何時を生きているのか、さっぱりわからなくなってしまっていたが、
9月11日、急に、10月の季候へとワープした。
熱でうなされたよな夢から醒めたら今度は未来。未来は反動のような長雨であった。
9月、完全に晴れた日は5日もない、ほぼ毎日雨が降っていたのだ。

天気が変ってしばらくして、少しは食欲が湧いてきた。
ごはんの甘く蒸れるような匂いも少し恋しくなってきた。
ラジオから「新米」のおいしい炊き方をお米のソムリエのような人が、
ツヤツヤのご飯のような声で話しているのも聞いてしまった。

と、そんな折、台所にあった、駅弁「峠の釜飯」の益子焼の釜型の弁当ガラが目に留まった。
我が家には、峠の釜飯ファンが居り、
近所のスーパーなどで駅弁フェアがあると並んでも買い求めてくるのだ。
ちなみに各地の駅弁の中でも峠の釜飯だけが、あっというまに完売してしまうらしい。
上州方面の釜飯と中央本線の釜飯では味が違うらしく、ファンは本家の上州方面のを狙って買うということも常識とか。
なので、まま、立派な飴色の陶器の1合炊きの空き釜、が家にあることになる。
いつもは、渋々燃えないゴミに捨てることになる。
渋々、というのは、あまりに立派な新しいものを捨てることへの罪悪感からくる。

今回は、新米のでまわるタイミングの妙が、これでご飯が炊けないだろうか?という考えを呼び込んだ。
正確には峠の釜飯を再現できないだろうか、と思ったのだけど、まず、「白飯」だな、と。
今は便利な時代でネット検索してみれば、意外と多くの人のレシピが見つかる。
驚いたことに、当の釜飯屋のHPでレシピを公開している。やはり、この釜を活用して欲しいのだ。

じゃあ、と、少しドキドキしながら白米を炊いてみる。
少し吹きこぼれたりして、火加減と格闘するのも実験気分で楽しい。
できあがり、蒸らして、一口。
う、うまい!!絶句。
同じ米なのに。米なのに。。。ああ、なんてひどいことをしていたのだろう。
どのくらい違うのか、というと。米のうまみだけをひたすら享受したい、と箸が飯だけを選択しつづけ、
それだけを食べ続けることを止めさせない。深く眠っていた野生の正直な本能の「うまい!」に身体が勝手に突き動かされる体験レベルなのだ。理性など差し挟むスキはない。オカズ類のすべての塩気が気になって、手をつけられない。
もちろん、今まで土鍋ご飯は食べたことがあるが、何か、が決定的に違う。説明できないレベルの何か。。。。


「何か」を頭の中で言葉しようと試みながら、
ふっと、「良い物」ってなんだろう?という議論を20代の頃さかんに友達とやっていた記憶を思い出した。
その頃、「良い物」の答えは1つきりで、格言のようにすっきり、ズバリ、胸に収まるような答えがあると、
漠然と信じこんでいた。が、年齢や経験を重ねるうちに、「良い物」は一人々々によっても違うし、
その人の時期によっても違う、さらにTPOによっても求められる「良い物」は変る、ということが
自然とわかるようになった。
だが、たぶん、普遍性を持った「良いもの」も存在している。
その要素の一つが、素材が活きているもの、のように思う。
素材が活きていると理性を飛び越え感覚にダイレクトにくる。
釜飯炊きの白飯のように。

 

木という天然素材を扱っていると、そんな課題に今も直面する。
うまい白飯を食べて思うのは、やっぱり仕事のことなのだ。
自分では熟慮して素材を活かせたつもりでいても、
何かのきっかけで、もっと先の感覚を知ることが多々ある。
でもやっと手に入れたような、その感覚は、おいしいご飯を食べ万人がおいしい!と笑顔になるような、
当たり前の、感覚を引き出すことだったりする。

 

しかし、だ、この釜炊きご飯の美味しさは、他のおかずを寄せ付けない。これは果たして、健康にとってよいことなのか?
周囲、環境とのバランスも良いとか悪いの判断の大きな要素だ。
これは毎日食べ続けててはいけない、
休日を「ごはんの日」と設定し、ごはんに感謝し自分を戒めるハレの日とすることにした。
釜炊き白飯と漬物と味噌汁だけの食事。白飯にハッと驚く日。

 

残念ながら、当たり前にめぐる日常は失ってはじめてありがたさを知る。
美しい世界は何も変らず、前からずっとそこにあり続けているのに。
そんな気づきも、やっぱり、常軌を逸した天候からの贈り物だったりする。

 

2018/8/30  鬼百合

 

塀の白 鬼百合呑めり 一の谷

 

雨が一滴も降らない気温36度の日が何週間も続いた。
室内に置いてあるモノというモノが熱を帯びるほどの異常な暑さの中、
今年も扇風機だけで過ごした。ありがとう、扇風機様。

 

 一月ほど前である。まだ酷暑に襲われる前の人心地がしていた頃。
カンカン照りの正午に近づいた時、白い塀がハレーションを起こし、塀際に咲いていた朱色に咲き誇る鬼百合を消し去ったように見えた。その時読んでいた源平合戦の物語に重なった。義経率いる白旗の軍勢が、一の谷の絶壁を逆落としに駆け下り、背後から赤旗の平家を飲み込んでしまった。都から敗走を重ね、一の谷で平家が敗れ総崩れになるまでの様子が、絵画的というよりも映画的美しさで描かれているのが「さざなみ戦記」井伏鱒二著。

 

 20数年ぶりに高校の同級生に会って酒を酌み交わす。
当時、ラグビー部の猛者にして、文学や音楽などの文化系のアンテナが異常に鋭敏な不思議な男だった。
再会してみると、今も変らず、ラグビーとウッドベース。おたがい変らないねーという話にはじまり、年をとったよね、となったのは、御互い郷土史を調べ始めており、地元の地図を広げて、畠山はここに陣を置いて、衣笠城を攻めた、だの、実際行ってみると城跡が見えただの、この川はここまで船が入って東京湾まで抜けただの、話が弾んだ時だった。
ありがちな、中年歴史研究男子化がおこっていた。歴史に名を刻む三浦半島だけに掘り下げたい研究対象は限りない。それは、真実の追求というより、過去への旅、といった方がいいかもしれない。時を違えて同じ場所に立つ。そこから見えてくるものを文献から想像する。時空とリアルの場所を交差させる遊び。
遊びなので、より心躍る方を真実とする自由を楽しむ。

 

 もう一つ、おじさん歴史クン達の多くは、自身への検証の旅をすると思う。
時代は源平に戻る。複雑に絡みあっているだろう私の先祖の、分かっている一系統は、平家方として確実に一の谷の合戦に参戦している。平家が壇ノ浦で最後をむかえ、その後能登に流されたことがわかっているからだ。その時、先祖が何を感じ、何を考えたのか、自分の血に問うてみたりする。自分が生きているということは、各時代に先祖が息づいて生活していたことに間違いなく、その時代をどのようにとらえ、考え、選択し、生きたのか、自分の生き方と照らし合わせて感じてみる。もし、遺伝子に事細かな世代の記憶が書き込まれていたならば、その記憶を必死で読もうとする作業。
若い頃のルーツへの興味と少し違い、先祖の仲間入りする準備というか、ちょっと干し草の匂いがする。

 

 酷暑が少し落ち着いて、こうしてやっと文章が考えられるようになった。と同時にいろいろと気がついたりする。
庭のアジサイの花々が茶色いドライフラワーになって酷いことになっていることに気づいた。

庭に出て、アジサイの花を切っていると、右手の人差し指に鋭い痛みが走った。間髪入れず左手の親指にも痛みが走った。
見ると作業用の手袋にアシナガ蜂がしがみついて、毒針をつき立てていた。
一月前に鬼百合が咲き誇っていたあの白い塀の前である。作業用の手袋の色は、赤。
その後数日、平家の落ち武者となりて過ごす。
因縁なりしか?記憶の扉が開いたような、そうでないような。。。うん、開いたことにする。

 

アシナガの毒に 前世の瞳開く 踏みしだかれし 鬼百合の谷

 

2018/6/29  漂流

 

今年も巣立ちの季節がきた。
リビングのテーブルに座るとガラス越しにジューンベリーの木が見える。
この2階の床ほどの高さに成長したジューンベリーの木は、15年くらい前にポット鉢に挿し木したものを
知人から分けてもらったもの。
ジューンの名前のとおりこの季節に、数珠ほどの大きさの珊瑚のような赤い実が熟して濃紺になったものが、
たわわに生る。
それに雨の重さが加わって、しなって揺れる。

不自然に大きく揺れると、つい目がそちらに動く。
と、決まって何がしかの鳥が実をついばみに来ている。

おおきく揺れればヒヨドリ。
ヒヨドリはついばんで、食べる時と食べないで投げ捨てる時がある。
ちなみに実の味は、人の口には、少し渋く、甘さもイマイチ。
ヒヨドリも、しかたなく選り分け選り分け食べているのかもしれない。
小さく揺れた時は、メジロに間違いない。
この季節は、メジロが子供達を連れてくる。
子供達といっても姿かたちは大人のメジロと見分けがつかない。
子供達は、羽を細かく震わせて、口を開けて、親鳥にジューンベリーの実をねだるのでわかる。
親鳥は自分優先でパクパクとついばみ、
時々、困った子達ね、今回だけよ、次からは自分で採りなさい、とでも言っているように
気まぐれにあげているように見える。

 

そんな幸せそうで無防備な巣立って間もない小鳥たちを眺めながら、
最近、読了した本「漂流」(吉村昭 著)に登場するアホウドリたちを思う。
ここに登場する、アホウドリは人のことをまったく恐れない。
翼を広げると2,5mにも達する超大型の海鳥で、哀れ、漂流者たちの貴重な食料となってゆくのだが。。。

 

時は江戸時代の実話。
アホウドリしか住まぬ絶海の孤島「鳥島」に難破し漂着した船乗り達の物語である。
鳥島は、日本地図を広げてみると、伊豆諸島と小笠原諸島の間遠い海上の真ん中あたりにポツンと見える点。
なるほど、絶海の孤島の名に恥じない孤島。

火山島なので樹木らしいものももほとんどなく、礫と茅ばかり、川も泉すらない、つまり水が無い。
そのかわり、アホウドリの営巣地なのでアホウドリに埋め尽くされている。船の航路から外れていて、
何年待っても船影をみることはない。すなわち、見つかって、救助される「希望」は皆無。
その島で、火種も火打ち石も難破で失った身一つの状態からの究極のサバイバルが繰り広げられる。

そんな絶対絶命の状況下で、繰り広げられる生存の物語は「人間」とは何か「生きる」とは何か、その根源を
いやおうなしに描きだす。猿人から原始人、文明を持った人へと人類の進化の過程を推測させるような
「火」や「鉄」、道具がもたらす生活の劇的な変化も興味深い内容なのだけど、
なんといっても心模様の描かれ方は著者が戦中派だけに、息詰まるような生々しさで心に食い込んでくる。
序文に語られるように、江戸時代の海の男達に時々日本兵がシンクロする。(戦争と違うのは、
戦闘が無いこと、敵兵から逃げ隠れしなくて良い、ということが物語から「陰惨」さを遠ざけている、と思う。)

心を蝕むものに「孤独」「絶望」「死」が大きいということは、わかる。
が、「期待」や「希望」というのが両刃の剣のように心を痛めつけ、
過度の安息や怠惰が健康を蝕む様子には驚かされる。
「想像力」も苦しみを与え、ある種の「あきらめ」や、仏への念仏信仰が大きな救いとなる。
「祈り」や「儀式」の重要性、神や信仰を獲得過程の人類の精神史をも伺い知るようだ。
なので、読後の余韻は、超然的な自然と人、神が織り成す神話や壮大な叙事詩のソレに似ている。

 

しかし、その壮大さを感じつつ、人間存在の根源的な問題ゆえか、非常な身近さも感じるのである。

 

普通に暮らしていても、実に日常的に、孤島に遭難したような状況はある。
どころか、見渡せば、人間関係においても、仕事においても、
家庭や社会のあらゆるところに絶海の孤島は存在するではないか!

その孤島で、人は同じような心持ちで悩み、工夫して脱出を試みているように思う。
その脱出は、人類が誕生から繰り返してきたものと同じだ、と真に感じた時、
大きく視野が開いて少し救われるのではなかろうか?

少なくとも自分には『漂流』はそんな救いをもたらしてくれた。

 

ジューンベリーに来た今年のメジロの幼鳥は3羽。
もうじき一羽一羽離れ離れになって旅立つ。
孤独が待っている。
無事に帰ってこれれば、新しい出会いがある。
それが、太古からの慣わし。繰り返し。

 

ジタバタしたところで,,,悠然と地球は回り続けている。

 


2018/4/9 泥跳ねる

 

今年の初ガリガリ君は3月31日。
季節はずれの初夏の陽気に、ごく自然にコンビニのガリガリ君に手が伸びた。
60年に1度くらいの晴天続きの春だとか。
例年の強風日も非常に少ない。
でも、花粉量はモウレツにひどい。
ヒノキの花粉が昨年比43倍だとか、、、ヨ、ヨン、ジュウ!!!って何??

 

3月中旬から、桜ばかりか、初夏の花のレンギョウや山吹まで争うように
咲き急ぎ、芽吹きまではじまってしまった。1ヶ月前倒しの季候。
最近は、エッ!エッ?と心の準備のできないままに急いで季節が巡ってしまうので
ハシリ、や旬、名残りなどを感じるのが難しい。
なんだかんだで、今年も「濃縮の春」であり、短かそうである。

 

例えば春といえば、決まって、「水」や「泥」にハシリを感じたりすのだけど、
今年はなかったな~と思って過ごしていたら、思わぬところで「春泥」とバッタリ出会った。

 

納品先で、お兄ちゃん達について遊びに出ていた小学一年生なりたての男の子が、
泥まみれで玄関から帰ってきたのに出会った。
服も顔もゾンビメイクのよう、フローリングの床には、しっかり泥の足跡が点々。
お母さんに叱られながらも悪びれずお兄ちゃん達と2階に上がっていった。

「もう、昨日も、床拭いたのよ、やんなっちゃう」と
お母さんは、ブツブツこぼしながらも台所仕事の手を止めない。

こちらは悪いと思いながらも、ゾンビメイクに笑いが止まらない。
なんか春!!
あの頃あった春。
何もかもがワクワクしていて、
抑えが利かないように外に飛び出していった春。
スプリング!
そうだ、弾むようなバネのような気持ちこそが春だった。
こんな気持ちの春は久しぶり。
ありがとう、春の子供達よ。
「泥跳ねる 弾けるバネや 子達の脚」

 


2018/2/3 雪に思う

 

「雪語る あの世の人の 今のこと」
 豪雪で苦労している雪国の人からみれば、余裕、に映るかもしれなく、申し訳ないのだけれど、
雪というのは南関東の辺の人にとって年に2,3回おとずれる、非日常であり、非現実に近いおとぎの世界なのである。
一瞬で魔法のように景色が一変してしまうことはもちろん、
普段転ばない道ですっ転ぶのも、
近所総出の雪かきで普段顔を見ることの無いたくさんの近所の住人を確認したりするのも、
違う時空の話のように感じるものなのだ。

 風のない、世界中の音が消え去ったような雪の夜など、空にあの世とこの世をつなぐ門がぽっかり開いて、
その暗い空の門から降ってくる白い雪が、何かの言葉の断片だったりしないだろうか、と思ったりする。
手紙を燃やしたあとの、雪のように降る灰を思い出したりするからかもしれない。
雪の結晶は2つと同じものが無いというから、
もしかしたら、もしかしたら、と手の平で融ける雪から何かを読み取ろうと、じっと見てしまう。。。
そちらで、穏やかでいらっしゃいますか?

 

 考えてみたら、大概のおとぎ話というのは試練の連続の物語であった。
登場人物たちは結構大変な目にあっていたりする。
ふっと、思う。
おとぎ話の登場人物たちから見た、私たちの世界のことを。
大雪で右往左往している私が主人公のこの世界を。
あきれて見ているのだろうか?
雪は深々と降って、妙なおとぎの国の登場人物からもメッセージが届きそうな夜。

 

2017/12/19 住まう(前編)

 

降り続く雨の合間に晴れ間がちょこっと覗いたような天候の今年だった。

 

雨ばっかり。

そのせいか、雨に打たせっぱなしで、ほったらかしになった庭の
北東の壁と家の壁に挟まれた1mばかりの通路のような日陰が
いつのまにか苔に覆われていた。

 

それが、杉苔なのだろうか、柔らかな明るいグリーンの絨毯のようで
たまの晴れ間の朝日を浴びて白珠をきらめかせているところなど
神様の住む森のようで見惚れてしまうくらい美しかった。

 

そのジオラマの神の森を大切に育てようと決意し
苔を踏まないように歩き、
降り敷かれたチリ落ち葉を、一枚一枚拾ったりと
過保護すぎる可愛がりで過ごした。
今、その苔ヶ原にまっ黄色のイチョウの葉が散り落ち
その、黄色と緑の対比がものすごく美しい。
ソレを一枚々拾うのが難儀なのではあるが、
何ものにも変えがたい美しい光景を見たくて
情熱を傾けてしまうのであった。

 

ふっと目を上げると新築の家が2軒見える。
今年は近所が建売の新築ラッシュだった。
界隈に、歳をとって家を手放す人が多く、
その1軒分の土地に建て売りの家が2,3軒建つのが常だった。
どれもが、同じような顔の家だ。
その工期の速いこと速いこと!整地から3ヶ月で建ってしまう。
しかし、どこの現場も、出入りの職人のガラがびっくりするほど悪かった。
分業が細かく徹底されていて、
短期で出入りの職人がめまぐるしく変った。
作ることの喜びや「誇り」など感じることができないほど
キビシイ環境であることは見て分かる。
「家」ってなんだろうか?とか
「建築」って、とか「住む」って、とか考えさせられた。
その家々を選び住む人には何も言うことはないけれど
その過程に少しでも関わるだけに、深く考えさせられたのだ。

 

そして、引越しの挨拶などがあった。
頂いたのが、「市指定のゴミ袋」と「サランラップ」、「食器洗剤」だった。
びっくり、の次に、愉快であった。
確かに、消耗品として非常に有難い!!
近年、アレルギーなどもうるさいので食べものは難しいし
暮らしの形態も様々、好みも様々となると、、、、
なるほど悩む。
ネットの相談まとめサイトとかにあるのかもしれないな、などと思った。
でもやっぱり、「家」と「住む」は連動している、と確信したのだった。
(続く)

 

2017/10/28 黄の蝶ら

 

黄の蝶達 まわす光輪 萩の群

 

空気がすっかり秋に変わる前に庭の萩がひっそりと咲き散ってしまった。
真夏日かと思えば明日は11月のように寒い朝、といったジグザグした残暑、
とも言えぬような9月が過ぎて、季節についていけずオロオロしている間に
10月になってしまった。
それでも、
黄色の蝶に誘われるように目をやった庭の萩が、こんもりと満開であって、
朝日の光芒を受けて、まるで仏のように神々しく見えた一瞬に出会えた。
山川草木悉皆成仏。
出迎えてくれる秋のある幸せに心の中で手を合わせる。

 

不安定な天候に沿うように、乱高下の激しいときを過ごした。
上方向と下方向の最たる出来事は「いのち」に関わるものだった。

 

下方向は、
知り合いの訃報で、冷たい水底に沈んだような残暑。
一回りほど年上の男性なので友達とはいえない。
物静かなのだけれど、ヒッピームーブメントとか無頼とかの時代の残り香が
そこはかとなく漂ってい、古書街が似合う人だった。
1年に何度も会わないのだけれど、
なぜか自分の中での存在感は大きかった。

 

しばらく顔をあわせていない人の訃報というのは実感が伴わない。
訃報を聞いても、まだ生きているような気がしてならなかった。

 

遺族はポケットにハイライトのタバコとチェルシーが2粒入っていたと言う。

 

チェルシー、子供の頃良く食べたキャンディー。
何軒かコンビニをまわったが売っていない。
やっと2軒目のスーパーで
袋に3種類の味が袋詰めされているのを見つけて買った。
昔は、粒チョコのようにスライドして開閉する紙の小箱売りで
パッケージがサイケデリックな花模様だった。
子供心にちょっとした高級感を感じたものだ。
バター味を一粒ほおばった。
とたん、涙と悲しみが心の奥深いところから溢れでてきて止まらなくなった。
深く柔らかいところの感覚で交信したように感じたからか、なぁ。。。
味、という言葉以前の体験のおそるべき力。
死んじゃったんだなぁ。
と、はじめて実感が来た。
そして、なんでさ、という言葉を何度も口の中で溶かしては、飲み込んだ。
故人を偲ぶ食べ物、が少しづつ増えてきたなぁ。。。
若い時分には想像できなかった。

 

上方向は、納品先の子供達とドッジボールをしたこと。
もちろん子供達に誘われての参戦だ。
小学生低学年の男子4人対おじさん2人である。
私の味方は、おじさんといっても、180センチの高身長のスポーツマンであり、
こども組の中の一人のお父さんでもある。

 

家の前の路地を見えない線で仕切って、
こども達から大人は「いのち」を3個もらった。
(うわー、いのち、って文化遺伝して残っているんだ!と感動)
つまり、球に3回あたったり落としたりするまでゲームができる。
子供達のイノチは5個だったのが、最後は無限の無限、という
ある意味哲学的なものにまでなった。

 

けっこう「ビシッ!」とキビシイ配球をしてくる。
ので、つい、おっさん組も昔にもどって本気目の球を送り込んでしまう。
(身体が利かないことが大きなブレーキになっているのだけど)
しかし、「ハシッ!」と抱き込むようにしっかりキャッチする。

 

1歳程の時から知っている男の子なので、その成長っぷりに目を見張る。
のびしろ、しかない存在。希望の塊。
球の球威がズンと体に響く度に、ナマな生命力が呼び覚まされた。
子供達はお腹がすくようで、食べ物をせがんだり、
なんでも目を輝かせて食べる。
親にとっては当たり前の光景かもしれないが
そんなのも、見ているだけで、なんだかうれしくなる。

 

そうやって今、何気なく食べているものから、
生涯ついてはなれないような食べ物と出会っているのかもしれない。
と想像するのも、おもしろいような、
ちょっとだけ、セツナイような気もした。

 

生きて、生きぬいて、生ききって、
辛いことも悲しいことも
受け止めて、投げ返して、かわして、逃げて、、、、
そして、食べて、笑って、、、
がんばれよー!!と思う。

 

黄の蝶は、いつも何かの知らせ。
その蝶を子供達が虫取り網を持っておいかけて
無邪気に捕まえる。そんな子供達も、いつか蝶になる。
金の環のように、くるくる世界は回る。無限の無限に。

 

2017/8/24 バタ足の軌跡

 

7月は信じられない猛暑が続いた。
南関東の多摩地方はカラ梅雨で、はやくから真夏日が続いたせいか、
ずっと真夏の中をのたうちまわっているような気がした。
例年より早い登場のニイニイゼミの鳴き声が耳鳴りのように響いていた。
冷房の無い工房は38度、換気扇と集塵機がボーボー吼えていた。。。
この温度の中、もがいていて、ふっと、この感覚、どこかで味わったことがあるような、、、
と、思考停止しそうな意識の中から

昔の記憶がジットリと汗のように浮かび上がってきた。

 

それは、プールの記憶。高校の水泳部の炎天下でのバタ足の練習だった。

 

真夏。プールの前を走っている陸上部からは、妬ましいような視線を浴び、
練習を終えたラグビー部の連中が乱入して飛び込んでくる真夏のプール。
だが、たかが高校の25mプール、水量も少なく、水温は30度近い。
幼児用プールのあのヌルさである。
その中をハードに練習で泳ぐのは辛い。

 

むしろ陸部やラグビー部の想像する涼しげなプール像がうらやましかった。
ちなみに5月、プールの水温が15度を越えると練習がはじまる。
もちろん皆、唇は真紫になる。
今思うと、それが、できていたことが信じられない!!

 

そうそう、バタ足。
バタ足が苦手。
バタ足の練習はビート板を両手に持って頭は水面に出してバタ足だけで進む、アレ、なのだけど。
どうしても速くならない。他部員の半分くらいの速さなのだ。

足が小さいこと足首の硬さなどが関係している、と今なら分析できるのだが。。。
練習しても速くならないことは苦しい。
そして、皆がゴールしてしまっていて、私の到着を待っている風景を見ながら必死でバタ足しつつ進まないのはもっと辛い。
喘いでいる口からプールの水がガブガブ入ってくる。
インターバルの時間内にゴールできなければ、容赦無く次のインターバルのスタートの声がかかる。
と、遅れている私は休むことなく永遠に止まることなく泳ぎ続けることになる。。。

その苦しさを、思い出してしまった。

 

しかし、ゴールはある、という確信をその時学んだ。
そこで、足を着いてやめることだってできるけど、
泳ぎきったところに、1人、自分の納得だけがあった。
もちろん、誰も褒めてもくれない。
それが、毎日の練習の、まず初めのメニューにあったのだ。

 

あの頃の、「誰の為に」とか「自分の為に」でもない、
意味のわからないような頑張り、に比べたら、
今は、その先に喜んでくれる人の顔を想像できる。
そのモチベーションは計り知れない力になる。
それでも、辛いことはあり、それを乗り越えられるのは、
あの頃の体験があったからのように思える。
今思えば、清いような、尊いような、そんな気すらする。

 

8月も終盤になり、なんとか、なんとか、真夏のバタ足の練習が終焉を向かえた。
ふっと我にかえったように視界と知覚が開けた。
雨に打たれて、白い鉄砲ユリが庭に咲いていた。
黄色い蝶が、工房に入ってきた。
ツクツクボウシが鳴いた。
アキアカネがぴゅんぴゅん空を飛んでいる。
コオロギがコロコロ鳴き始めている。

 

さぁ、また、次のインターバル。
がんばろう~
「バタ足の 軌跡は雲に 秋の空」

 

2017/6/22 子々孫々

 

永かった風邪からやっと抜けた、と思う。
「麦の秋」と言われる頃にアレルギーからの風邪パターンが数年続いている。
更に、ここ数年急激に気温が上昇してフェーン現象のような風の吹く日が
とても多くなったことも、永い風邪に関係しているように思う。

 

少し色づいたアジサイも、乾いた強風に煽られてしんなりしている。
そのアジサイの下は一面のドクダミの白い花が咲いていて、
夜、ほんの少しの明かりに輝くような白が、
はっとするほど美しく、
夜空の星群を思わせて、見とれてしまう。

 

最近、ふっと思い立って、高校生の頃の自転車通学路の中ほどにあった里山を歩いてみた。
(1時間1,2本のバスを見送ってしまったことがきっかけなんだけど)

15キロほどの自転車通学には恐ろしく厳しく長い急坂の峠が2つあった。
その2つの峠の間にある。
歩けば30分ほどの里山で、南北を山に挟まれ東西に長い。
中央に川が流れ、その川が運んだ土砂で堆積してできた両岸の平地を
田畑に切り開きできた、こじんまりとした農村といった風情のところを
突っ切って、高校生の頃一心不乱に自転車を漕いで高校まで通った。
おまけに水泳部だったのだから毎日トライアスロンをしていたようなものだ。

 

時間のある帰り道、春のような陽気の日は、自転車を降り、押しながら里山を迷い歩いたりした。
当時は茅葺の家屋も散見され、田には水が満ちキラめき、畑は青々としていて、
蝶が、ゆっくり、ヒラヒラ舞う光景は学校で習った桃源郷を思わせるものがあって、
見ているだけで幸福感に満たされた。

 

20年後、「風景」は想像していたより変わっていなかった。
大事な宝物のような記憶だけに、書き換えるのが怖いような気がしたが
今の風景の中に、残像のように残っていた。
これが市街化調整区域の力なのだろう。

 

ただ、変わったのは「印象」で、荒廃の色がうっすらと漂っていて目についた。
それは、本当にちょとしたところで、例えば、道端の雑草の茂り、御地蔵さんの祠の佇まい、川一面に生い茂る葦、
休耕田の増加と資材置き場の増加、学校帰りの子供達の少なさ、、、そんなことなのだけど。

全体が桃源郷のキラめきに覆われていたのが、極々限られたところに散見されるまでになっていた。
そこは、しっかりと手入れの行き届いた農家周辺だった。

風景は変わらないけれど、ソレを維持していた農家が減少してしまったことによる荒廃なんだと気がついた。
ソフトが変わってしまったんだな。。。

20年前、まだ明治生まれの人が息づいていた。
今は居ない。20年は意外と永い。

 

自然との関わりの中に、民族の文化と歴史のすべてがつまっている、
と自分は思っているのだけど、こういった風景を見ていると、その意味を強く実感する。

 

世相もよく見える。
新しい家は、縦のつながりを意識しない1世代限りの佇まいであるにも関わらず半永久みたいな素材で武装している。
古い家は子々孫々の佇まいなのに、骨格だけのよう。

エコロジーとか循環型社会とか言うが、もっと生物的で根本的な大きな円をみた時、
そういった風通しのよい骨の中を子々孫々繋いでゆくことが、正解なのかもしれない、と思った。
それなら、自分はあきらかに不正解の中に居るのだけど。

 

これからの20年後の風景はどう変わっているのだろうか?
新しい美しさを身にまとっていて欲しいなと思う。
子々孫々は血ではなく、養子のような形で繋がっていければいいのに、と願いつつ。
取り戻せない、美しさ、一期一会だな、と心の奥まで沁み入って、バス停にたどりついた。
すぐに来たバスは峠にさしかかった。

遠く見渡す竹林は20年前と変わらず涼やに風に吹かれていた。
もう感傷から楽観へ、希望がじんわり湧いてきた。

 

2017/5/5 春雷

 

3月の終わり、春雷が鳴って激しい雨が降り季節が一気に入れ替わった。
[春雷や ヒビ割り落とす 凍り空]
バリバリと激しく冬の空が剥げ落ちて、新しい春の空が覗いたように感じた。

 

寒さが長引いたせいで、桜はながかったが、異例の夏日が続いたりして
順番待ちをしていた春の花々が、押し出されるように一時に咲いて、
緑が吹き出し、あっというまに初夏のようになってしまった。
車のハンドルを握る腕が緑に染まるほどの
キラキラの新緑の玉川上水沿いの並木が気持ち良い。

 

4月、とうとう工房前の道路拡張工事が終了した。
2年くらいかかったのだろうか?
以前の1.5車線くらいの道が、2車線になり両側に6mずつ歩道ができた。
4倍以上の広さになったことになる。
旧日産の白壁も無くなったので、だだっ広い公園のような風景が広がる。
ついアクセルを踏みたくなる光景だが、
制限速度30キロ制限と非常に意地悪な設定で、
白バイが隠れ常駐してい、捕まる人が非常に多くなった。
サイレンの音が五月蠅い。
工房にいらっしゃる際は充分に注意されたい!!

 

この新しい光景の広がる、工房を訪れる人々の感想がそれぞれでおもしろい。
好みの問題だけど、自分は、昔の、閉じた、打ち捨てられたような、ひっそりした環境が好きだった。
自分と同じように、昔の方が良い、と言った人はたった二人。

かなりのマイノリティー。数寄者。
新しい光景は、切り取り方で北海道旅行のパンフの写真のようでもあるから
嫌な光景ではないのだ。「丘」がイイ仕事をしていると思う。

 

道路ができてゆく工程をずっと見てきた。
標識の多さ、路面へのペイント、縁石、外灯やミラーは必要としても、
それらが足されてゆく工程をみていると、
道がどんどん狭く、ワサワサと感知されるようになってゆくのがわかる。
不思議なもので、風景の中から引き算を想像することは難しいのだな、
ということを目の当たりにした。
北海道のような光景に、そういった夾雑物がなかった道の状態が
一番しっくりときていたし、車で走っていて気持ちが良かった。

 

AI搭載の車が普及して、そういった道路情報を
すべて車が感受するようになったら、道の光景はごくシンプルなものに
変わるのだろうか?
それとも御役所が予算確保のために、
新しいアレヤコレヤを付足しつづけるのだろうか。

 

道が大きくなって人が小さく遠くなった。
五月晴れの下、小型犬のように小さくなった人影が、所在なげにゆっくりと移動してゆく。
走りまわる子供達だけが、風景に倣って伸びやかにみえる。
なるほど、この風景に馴染むには、新緑のような若々しさが必要なんだな。

 

2017/3/25 春乾季
乾季、雨季、パッキリ。
雨がほとんど降らなかった東京の冬~春分。
思い起こせば、去年の梅雨のひどい長雨。
ほんとうに熱帯化しつつあるんだなぁ。

 

季節感が、自分を構成する要素として大きいことを実感している。
その喪失は大きく自分を狂わせている。
たとえば、時間の感覚。ドーっとなんとなく時が押し流れてゆく。
車の中からウインドウ越しに風景を見ているような感覚で実感を伴わない。
と、カレンダーを見てハッとするほど時が過ぎているのに気がつく。
皮膚感覚のセンサーで気がつかない。

 

視覚も少しおかしい。
春の花や芽吹きに喚起がこない。
なぜだろうと、観察して思ったのは、花の開花時期が狂ってきていることが1つ。
それから、乾燥していることが大きいと気がついた。
春の「しっとり」がないことが、「艶」を奪っている。
春のしっとりやわらかな黒い土の包容力も
灰色の砂塵に洗われて感じない。
何かもやもやと、春のはしりを過ごしてしまっている今日この頃なのだ。

 

しかし、あの6年前原発が水蒸気爆発した映像が流れた
東北の震災の3月から、何かがおかしいのだ。

 

あの時の「絶望感の春」の体験が、消せない。
どうも、あの時、薄い膜のようなフィルターが、
外界との間にできたのだと思ったりもする。

昼間に計画停電で車内の電気を消した電車に乗った。
電車が駅舎にすべりこんでゆくと、駅舎の屋根の影で車内が真っ暗になった。
乗っている人もまばらだったが、
車両の横長の椅子に、
脚まで投げ出して寝そべっている大学生くらいの若者が居た。
誰も注意はしない。
そこに、「絶望」が横たわっているのが見えたからだ。
かける言葉もないじゃないか。
単身東京にでてきている東北出身の学生かもしれない。
忘れられない光景の一つだ。

 

毎日、強い風が続いた。
時間があれば、パソコンで原発付近の風向きと拡散状況をチェックした。
したところで、であるのだけど。。。

 

明日、人類が滅びるとしたら何をする、
という問いに、今までどおり暮らし続けるだろう、という答えを得た春。

 

あの時の絶望。
そして、国家権力の振る舞い。
擬似、戦時下、体験といっても良いのかもしれない。

 

あの時、東京の消防隊を送り込んだ石原元都知事は6年後
弾劾の的になっている春。
オリンピックが開催されることになるなんて想像もしなかった春。。。

 

今春は、家に来るメジロ達に混じってウグイスも来るようになった。
そのウグイスの初鳴きは、遠慮がちで小さな澄んだ鳴き声だった。
無邪気だった春とは別の、
乾いた春のささやかな潤いは、音から来た。

 

2016/12/29 うれしかったこと

 

今年の冬も、西の丘の上に立ち並ぶ夕焼け色のトウカエデの大木の並木は、
律儀に北側の梢の先の葉から段々と落ち葉になって散ってゆき、
南の端まですっかり丸裸になった。
夕日に丘の上の枯れ木の巨人たちが黒い影となって居並んでいる。
何かの罰でも受けて立たされ、痩せ細り、夕日を見て泣いているかのようだ。
冴え冴えとした空気が身を切るように冷たい。

 

師走が容赦なく猛スピードで走ってやってきた。
その足音を後頭部に聞きながら、つらかったことより
今年のよかったことだけを思いだそうと決意して振り返った。
師走が突き出したバトンの向こうに
人々の顔が見えた。
やっぱり、よかった、そう思った。

 

何人もの、何家族もの素敵な人々に家具をとどけられた。
幾人もの人々の深い情けに助けられ、なんとか年末までたどりついた。
気持ちの良い晴れやかな笑顔だけが思い出される。
その気持ちにきちんと応えられてきたか、
今の精一杯で返してきたつもりだが
反省はいなめない。
来年こそ!!

 

その中でも焼き印のように心に刻まれた人がいる、10年ぶりの再会をした。
それは、車を持つ前によく使っていたレンタカー屋さんの店員さんだ。

 

今晩は徹夜覚悟、明日は納品という日の夜、半年ぶりにトラックを借りに行った。
と、その人は中年のおじさんの姿で居た。
あの、昔、この店に居ませんでしたか、と声をかけた。
「やはり、そうでしたか、覚えていてくださりありがとございます」
と返事が返ってきた。太って、禿げました、と笑ってお腹をさすり
10年ぶりに帰ってきました、と付け加えた。
私のことを覚えていてくれた。

 

10年前、その人はまだ青年の匂いをただよわせていた。
さりげない丁寧な対応で、丸い顔がなんだか人好きするような、そんな人だった。
なぜ、そんなに印象に残っていたのかというと、彼が他店に移動する時に
「真吉さんにはほんとうにお世話になりました、他店に移動になります~~~」
という挨拶をされたからだ。
常連意識も特になかったし、高級車を借りているわけでもないので、
びっくりしてしまった。
そして、あたたかいような気持ちがこみあげてきた。
ドライになりがちな、例えば良く行くコンビニやファーストフードの店の店員に言われたら、と想像してみたらわかるだろう。
レンタカー屋さんの店員は、移動が多いのか、2ヶ月くらいでコロコロ人が変わる。
その後、そんな店員さんが現れることもなかったし、普段の暮らしでもなかった。

だから、深く印象に刻まれているのだ。

 

10年ぶりのその人は善良さに磨きがかかっており、
車の誘導や、歩道の通行整理で
通行人がにこやかに頭を下げてしまう魔法のような風格を備えていた。
神様なんじゃないか、と思った。
それから工房に帰って徹夜に突入していったのだけれど
心が折れそうになるのを、その一事がずっと支えつづけた。
人だな、結局、ああいった人が人を幸せにするんだな、という思いが
一晩中支え続けた。そして、良い仕事につながったと思う。
納品先でその家具類を喜んでもらえた。
そんな連鎖がおきた。

 

もし、神様がいて、
今年、何かを教えてくれようとしたのなら、
きっと、そういうことだったに違いない。
たとえ、動乱と天変地異に世界がおおわれようとも、
このことを忘れないでいようと思う。

 

少しでも穏やかな2017年になりますように。

 

2016/10/15 ようやく

 

車のドアに触れるとピリッときて、ハッとなった。
振り仰げば空は晴れているし、いわし雲も泳いでいる。
関東では50年ぶりだとかいう以上な秋の長雨に一ヶ月ほど降り込められ
ベターっとした灰色の空や風景が夢の中まで侵食してきて
灰色に染め上げてしまい、
晴れている方が夢かと感じるほどになってしまっていた。
 
ようやくに晴れた、秋の乾いた空気だ!静電気だ!!(静電気は好きではないが、、、)
スイッチがパチリと入って目が開いたら、
いつのまにか赤く色づきはじめているピラカンサの実が目に飛び込んでき、
金木犀の芳香に気がついたりした。
長い息を吸ったり吐いたり、身体の中の灰色を、はやく追い出したいと思った。

 

雨の一ヶ月、灰色の風景が夢とのハザマを越えてくるような出来事がいくつかあった。
庭の八重の枝垂桜が咲いた。
春よりもずっと薄いピンクの花であったが、
雨に打たれているのを見て最初は目を疑ったが、現実だった。
続けて、ジューンベリーという6月に花をつけるベリーの木の枝先に
一群の白い花房を見つけてしまった。
そして、工房の朝顔。
通常の花は、白地に紫の点々が5、6粒放射状に入っているのが鈴なりになっているところへ
紫だけの花が一房だけ混じって咲いていた。
植物に限らず、他にもイロイロな不思議な出来事がおきた。。。
現実と思いこんでいる世界の境界線が怪しくなってくるのも無理もない。

 

雨に降り込められて、本を開いた。
『中心の移り変わりで読む 一気にわかる世界史』
秋田総一郎さんがこの秋上梓された本。
秋田さんは「団地の書斎から」というブログを発信している。
数年前多摩の公団を安く購入して建築家にリノベを依頼して住んでいる。
近頃話題の団地をリノベーションして住むハシリだと思うが(その前に聞いたことがなかった)
その時、家具を納めた縁で今も仲良くさせていただいている。
こつこつ書きためたブログが編集者の目にとまってこのたび出版となったようだ。

 

秋田さんは「要約の天才」と言っていいと思う。
例えば、偉人などの功績などを数行でまとめて、かつ、読ませる。
このたびの本は世界史の入門者(でもわかる)向けらしいが、
ここまで簡略化するか!と驚くほどなのに、ポイントはしっかり押さえていて
でも、やっぱりおもしろく読ませてしまう。
言葉でムズカシければ、図などで簡略化する。
それは、誰が見てもわかるように、ハッと気を引くように、工夫されている。
つまり、プレゼンが上手。

 

秋田さんのブログを読んでいると「楽」という漢字が浮かびあがってくる。
生活を楽しむ、楽に生きる、楽に学ぶ、
そういった楽のための方法を提案されているように感じる。
陰惨な事件から、日常ちょっと小耳にはさんだ雑談まで、
不安でざわつきがちな出来事を、ちょっと視点を変えてみてごらん、
心がちょっと楽になるよ、と言ってくれる。

 

世界史の本も同じで楽々と心を「楽」に導いてくれる。
例えば、曖昧模糊、不条理きわまりない人類の歴史に法則のようなものがあることを説いている。
法則とか公式とかの持つ「絶対さ」の力強さたるや、なんという安心感!!
ほんの少しだけ、気持ちが楽になる。
気持ちが疲れた時に星空を見上げて
星座が天球をゆっくりと回ってゆくのを眺めて癒される感覚に近い気がする。。。

 

現実にしっかりつなぎとめてくれる本で、なんとか異界にひきづり込まれることなく
雨の1ヶ月を乗り切れた。

 

しかし、だ、せっかくの秋晴れスイッチオンも、また灰色の日々である。
そんな暗い灰色の夕方、散歩をしているとき、初雁の渡りを見た。
昭和記念公園方面から、Vの字の編隊を組んで低空飛行でこちらに向かってくる。
白鳥ほどの大きさの20羽ほどの編隊だ。
初雁の渡りを見るのははじめてで、へーッという大口を開いて空を仰いでしまった。
そのアホ面をその中の一羽が長い首を傾げて見たのが見えた。
それほど低空だったのだ。

 

夕闇とのあわいの空を、多摩湖の方角に悠々と去っていった。
そのことを、明日行く予定のガラス屋さんに教えてあげようと思った。
ガラス屋さんとは鳥話で盛り上がれることを最近知ったのだ。

 

次の日伺うと、ガラス屋さんが言う。
昨日の夕方、初雁の渡りを見てさぁ~昭和記念公園の南側を車で通っていた時
低空で前を横切って、昭和記念公園にでもゆくのかな、と思ったんだよ。
あんまりめずらしいので教えてあげようと思ってさ。

 

その群れは、記念公園を飛び越え、
私の上を飛び越えていった。。。
まだまだ、不可思議が続いている。

 

2016/8/14 夏の風のお話

 

 目の奥まで焼け焦がすような夏のすさまじい光線に、目が開けられない。
いつの夏からか、サングラスの必要を強く感じるようになった。
だからか、今時分に咲く鉄砲ゆりの白は、昔よりずっと、まばゆく輝いてみえているはず。
北の行き止まりの路地の奥に揺れていた鉄砲ユリが、風で運ばれ、
いつのまにか道々の道路脇に咲いている。

コンクリートとアスファルトのほんの隙間なのに、立派な花房をいくつもつける。
どこに栄養があるのか、水はどうするのか不思議でたまらない。
1年目に少し南下、2年目はそれより南に伸ばし、
今では道を縁取る路地灯のように白い鉄砲ユリが揺れているのだ。

 

また、住人も植物好きが多くて、誰かの庭に変わった品種の花など咲いていると
訪ねてきたり、あげたり、もらったり、とよく知っており、ユリを引っこ抜いたりしない。
越してきた最初の頃、そうやって鉄砲ユリの苗を何株かいただいた。
増えすぎちゃって、とおばあちゃんが、ポット鉢で。

そのユリは何年も立派な花を咲かせたが、ある年、ふっと芽もださなくなった。
不思議に思ってしらべてみると、どうもそんな花らしい。
一説には、肥料をやってはイカンとか。
荒地を求め、風に乗って旅をつづける鉄砲ユリ。
なんだか高潔でかっこいい。

 

 そんなユリを眺めていると、物悲しいピアノの音が
ポロンポロンと遠くから風に乗って運ばれてきた。
夏になると、どこか遠くの家から毎年聞こえてくるのだ。
耳を澄ますと、やっと音をたどれるくらい。
風向きで聞こえたり聞こえなかったり。
上手ではない。
片手で指を慎重に鍵盤にゆっくりと落としているような弾きかたで
今年は、「峠の我が家」のようである。
去年は、映画「太陽がいっぱい」のアランドロン主演のテーマ
その前は「ゴッドファーザー」のテーマ、「ひまわり」などなど
少し物悲しいような古い名画の名曲が多い。
1年に1曲づつ。

どんな人がピアノに向かっているのかいつも想像してみる。
おじいちゃんのような気がしてならない。
娘が嫁いで残していったピアノで練習をはじめたんじゃないかと。
あるいは、亡くした奥さんのピアノで、一緒に観た名画を辿っているのか。。。
夏の風向きは気まぐれで、ときどき、小さな感傷的なメロディーを運んでくる。
ーーーーーーー

 

 久しぶりに実家に、電車とバスを使って帰った。
海水浴シーズンは、渋滞で車が動かないからと、強く勧められ、
そうだった、そうだった、と早朝に家を出て、新宿湘南ライナーに乗り込んだ。
新宿から直通がでるようになってほんとに便利になった。
朝食も食べずに出たものだから、大道のバス停を降りて、スーパーで菓子パンを買った。
田舎なんで、ブラブラ食べながら歩きはじめる。
セミだけがやたら元気だなあ~、空がやっぱ広いな~とか
ぼんやり考えながら歩いていると、
急に、ピストルで撃たれたかと思う衝撃音で、手に持っていた菓子パンが袋ごと消えた。
と同時に、一陣の強風と黒い影が手許を通り過ぎた。
「アッ!!」とも「オッ!!」ともつかない大声をあげてしまう。
背中から音の無い弾丸のように菓子パンを打ち抜いたのは、トンビだった。
菓子パンをさらったトンビが、道を挟んだ向かいの家の屋根の上で
「ドヤ顔」で見下ろしている。
私が通り過ぎるまで、菓子パンには手をつけず、ジッーと目で追っていた。

 

鎌倉の海岸でトンビに、弁当やハンバーガーが襲撃される話は、10数年前くらいから聞かれていたが、
まさか、葉山の街中までそれが広がっているとは。

葉山でも10年で変わった動物がらみのことはいくつかあり、
台湾リス(もともと江ノ島のリスだった)が勢力を伸ばしてきて定着した。
アライグマも見られるようになり、近所のおじさんが、山の一本道で睨み合って対峙した話を聞いた。
とうとう、今年、ガビチョウ(雅美鳥)の鳴き声が山々にこだますようになった。
ガビ鳥は、中国からの外来種で、多摩にも多く居て、ヒバリやミソサザエのような鳴き声でとにかく声量があり、意外とうるさい。
数年前やっと姿を確認できて判明した。

少しづつ何か増えいる。そして、何かが減っている。
減っている何か、の方が見えづらい。
ーーーーー
 今年、上半期は、車に乗ることが多かった。
まず、花粉がひどかったことがあり、車で通勤することでかなり症状を抑えることができた。
そのまま梅雨に突入し、雨を理由に車通勤が増え、
自転車のパンクが重なったりとイロイロなことで、行き帰りで車が増えた。
そうすると何が変わるのか、をまざまざと知った。

 

外とのつながりが希薄になる。
と、内側の何かが乾いてくる。

 

車を運転しながら考えることと、自転車や歩きで考えることは、質が全然違う。
不思議なものだと思う。
視覚だけ、では自分には足りない。

 

自転車を自力で直して、少しコンビニまで、と走り始めたときに感じた、風。
ああ、コレだったな。眠っていた何かが活動を始めたのを感じた。
そして、こうして、書き記す衝動も沸いてきた。

 

地球ができて、風が吹いた。
そこから何かがはじまったように。

 

2016/6/22  眼差し

 

今年も庭のアジサイをドライフラワーにすべく、雨上がりの澄んだ朝に4房くらい摘んで
天井から吊るした。
今年はナリ年らしく、大きく瑞々しい青紫の鞠のような花房をいっぱいにつけた。 
庭には3株ほど大人の背丈ほどになる同種のアジサイと、腰丈の山紫陽花が一株ある。
子 供の頃、いや20代の頃だってアジサイという花は、どちらかというと好きではない花だった。
がさがさしたような大振りな葉、ジメッとした季節にカタツムリ やナメクジが這っているような印象が強くあり、
雨でグショグショの靴を玄関先で脱ぐ際、ふと目に入る玄関脇に植えられたアジサイに
八つ当たりの矛先を向け たように記憶する。

それが、今では、愛でる、といっていいほど好きになっている。
別に、どうってことのない、どこにでもある品種のアジサイなのに。。。
不可思議なものだ。
何かが変わった。
アジサイの色のように、自分の感覚も、環境や年齢で変化してゆく。

 

5 月、デザイナーのC氏から、木工の仕事の説明を生徒にして欲しいと頼まれて、はじめて教壇というものに立った。
C氏は熱心な先生で、モノをつくる現場を見 せたいと有志の生徒を毎年工房に連れてくる。
その度、刺激をもらうのは自分の方。
生徒達にどんな思いを残せてあげられているかは、わからない。
そして、今 回は訪問前に講義を、と頼まれたのだ。

教壇からは、こんなにも生徒達が見えるものだったのか、
学生として過ごした日々のさまざまな授業場面が浮かんできて、
先生って、なにもかも見えていたんだな、見てみぬ振りしてくれていたんだな、と気がついて、冷や汗が出た。

また、生徒達が、こちらに向けてくる眼差しの変化だけがレスポンスである特異なコミュニケーションに、とまどいまくった。

 

こ ういった体験は、実生活では皆無なことと、普段しゃべらずにモクモクとやる仕事なこともあり、
考えていて伝えたい事(心の中でしゃべっている言葉)が、的 確な言葉となってアウトプットされず、
どんどん乖離した状態になっていって、講義が終わり、用意したレジメを見たら、
肝心なことを伝えられてなかったジャ ン!と愕然としてしまった。。。。
結婚式のスピーチで祝辞を忘れるくらいの。。。
こういった経験も、勉強も必要だな、としみじみ反省したのであった。

 

そんな気持ちを16号線のアスファルトにズリズリと引きずりながら、車を走らせて、合板屋さんの感謝祭というのに行った。
梅雨っぽいムッとした暑さが、信号待ちの車を蒸し焼きにしているような日だった。

出入りの合板屋さんの営業のおじさんが、年に一度のその感謝祭に命をかけているらしく、
年 始年末の挨拶のタオルでもカレンダーでもポストに突っ込んでいくのが、
感謝祭のチラシだけはわざわざ手渡しにやってくるのだ。
かなり本格的な舞台と音響を 組み、何組かのプロのお笑い芸人が午前午後の2ステージ、
屋台や出店も無料で食べ放題、飲み放題!のかなり太っ腹な祭りで、
どうやら、営業のおじさんは芸 人の呼び屋担当らしいのだ。

今年は、キタ~!のモノマネの山本高広さん他で、関心したり笑ったり、舞台で観るお笑というのをはじめて堪能した。
講義での反省を引きずっていたので、芸人さん達の舞台での立ち振舞いに、ついつい目がいってしまう。
プロでも緊張しているのが伝わってきて、ああ、そういうものなのか、と少し安心したり、
目の配り方など、素人ながら、勉強になった。もちろん、できやしないけど!

舞台の上から必死に客の目の色を変えさせてやろう!としているのがヒシヒシと伝わってきた。

 

その舞台を見ている人の共通店は「その会社から合板を買っている」なのだけど
家族連れも多く、200~300人くらいが椅子に着座して、折りたたみの長机を前に焼きそばなんか口にしなが観ている。
合板だから、型枠工みたいな人達もいれば、大工さんや工務店、木工所の職人たち、
あるいはそんな会社の事務員さんたち、親方、おかみさん、子供たち、なんかもずら~っと来ていて、
世代も3世代くらいがゴチャゴチャとまじりあっている。

なんだろうか、その中に居ると、ものすごく落ち着いた。
皆、眼の奥がやさしい。

 

そのやさしさは、工人が備える独特のもので、いつも不思議に思ってきた。
その雰囲気が、その家族全体からも感じられる。
飾りっ気のない人柄の、カラッとした集団。
だけど、どこの公園や祭りに行っても味わったことのない不思議なおだやかさを
かもし出している。
一人、またはその家族が毎日繰り広げる「朴」とした明け暮れのさざ波が
寄せ集まって、それに包み込まれたような幸福感。

 

きっと、合板会社の社員さんたちも、それを見て、元気がでるんじゃないかな、と思った。
きっと合板がただの商品ではなくなるんじゃないかな、と。
 
元気をもらって、16号を引き返す。
渋滞もないので快調に飛ばす。
左手に見えてきた瑞穂の山々は、縄文の頃、栄えた場所。
緑は濃く、たくましい縄文人の姿を想像したりする。
梅雨の雨をはじくような、つややかな体毛に覆われた縄文人が
歩道に飛び出してきたりしないだろうか。
その人は、どんな眼の色をしているのだろうか。

 

2016/4/5  うた

 

すべてがやわらかく、ほぐされて、ふにゃっとなりそうな春のうららかな青空が広がった日。
玉川上水の桜並木のトンネルに一分咲ほど花の色が加わった日。
の、昼下がり、
工房で仕事をしていると、中学生くらいの男の子の歌声が聞こえてきて、仕事の手をとめ、窓の外を眺めた。
2人の黒い詰襟制服を着た中学生の男の子が、手に円筒形の筒を持って下校の道すがら歌っているのだった。

歌は、どう聴いても、卒業式に歌うような歌で、ああ、卒業式だったんだな~と、
うれしそうにじゃれながら去ってゆく2人の背を見送った。

工房の前の道は、小中学校の登下校の道になっていて、
ちょっとした成長のドラマを見かけることがある。その日の中学生で思い出したことがあった。

あれは震災前だったから、5年以上前だったと思う。
3人組みの中学生の男の子たちが、やっぱり歌を歌いながら帰ってくるのをみかけた。
最初は音楽の授業に習っただろう唱歌のようなものを
ただ元気よくリエゾンで歌っているのをほほえましく聞いた。
だいたい毎日のように歌って下校していた。

人が道で歌っているなんて、最近あんまりないし、まして、誰に聞かせるわけでもなく楽しく歌っているのだから、
聞いているだけで、なんかいい感じだった。

それが、1年くらいして、ちょと古めの歌謡曲からニューミュージック(死語?)へ、そしてJPOPに変わって、
しかもグリーみたいにハモリが入ってきた。うまくなっている!!

けれど、しばらく、そんな歌声も聴かれなくなって、やっぱり1年くらい経って忘れていた頃、
その3人の歌声が聞こえたのだ。

なんと、ラップ!!しかも超絶うまい!!!
きっと、中一で歌う楽しみを覚え、中三でラップにたどりついたのだろう。
その後、その子達の歌を聞くことはなかった。卒業されたのだと思う。
名も知らぬ3人の中学生に生活の潤いをもらった、なんとなく感慨深い体験だった。

 

そういえば、自分も中学生の頃、仲良し男子3人組みだった。
同じブラスバンド部で、帰り道も同じ方角、丁度3人の方角が分かれる辻に一人の子の家があり、
畳の茶の間のちゃぶ台を囲んでたむろしてから帰る。

その子は今でいう「鉄オタ」で時刻鉄、乗り鉄、で、学割と周遊券で乗り継ぎ乗り継ぎする乗車の旅にくっついていったりした。
そんな旅は早朝の横須賀線逗子駅の始発電車に間に合うように、その子のお父さんが車で送ってくれることから始まる。
車から真っ暗な外の景色を眺めながら、決まってカーラジオから流れていオールナイトニッポン2部や「メイタン」のCMを懐かしく思い出す。

もう一人は、洋楽好きで、茶の間でテレビ神奈川のMTVの小林勝也なんか観ながら、
マイケルや、スティービーワンダー、ライオネルリッチーだとかを真似たり歌ったりして笑い転げていた。
そう、はじめて武道館に行ったのも3人で、TOTO(メーカー名ではない)の来日ライブだった。

そんな仲良し3人も、卒業式のあと、同じように茶の間にたむろして、
三差路の辻でバイバイしたあと、3人で会った記憶はほとんどない。
会っていたのかもしれないけれど、あの頃のあの感じ、との違和感、
を否定したくて、記憶を操作してしまっているのかもしれない。

 

なんとなく「春」って中学生な気がする。
周りに脇目もふらない右肩上がりな直線的な生命。
霞んでいる雲が描く茫洋とした空は、不確定で永遠に感じた未来、のようだ。
そんな中学生の卒業式の帰り道の群れに、
親世代の自分が一人、紛れ込んだなら、
なんともいえない複雑な感情になるように、
時々、ふっと置き去りにされたような孤独と、寂しさを感じるのが
春だったりする。

 

2016/1/26 追悼

 

(追悼文というのはなかなかにムズカシもので、11月から書き始め、年をまたいでしまった)

 

11月末、武蔵野の林も例年よりもとんでもなく遅い紅葉となり、
落ち葉が散り始めて、さまざまな鳥の鳴き交う午前中の
少し明るい日差しの差す林の中を散歩するのは
「武蔵野の幸福」と呼べるような特異な快楽なのだと思う。
枯葉の匂い。
枯葉は空高くから次から次へと舞い降りてくる。
クヌギ、コナラのような雑木の同じような太さの木立のラインとその影が
ジャズのビートのように並び、目が躍動しつつも、心は静まってくるような
不思議な感覚。自由、に触れたようなそんな喜び。

 

そんな林を歩きつつも、なぜだか、心は
フィリピンはレイテ島の敗残兵となって島を徘徊し、
それと同時に、「天才バカボン」と赤塚不二夫について思い、
80年代のタモリや「俺達ひょうきん族」について考え
それと、現在について考えるのであった。
何だ、この混乱した感じ。
でも、こういった脈絡のない同時並行的な心模様が
ぐちゃぐちゃと展開しているのが、人の心模様というものではないだろうか?

 

しかし、そのぐちゃぐちゃの取っ付きは、しっかりとあって
一つは、奥成達さんが亡くなったこと、
もう一つは村井養作先生の昭和16年の日記を
東京芸大の芸大史100年編纂の資料室への収蔵の
橋渡しの役割を無事果したこと。
が、大きい。
太平洋戦争中の芸大の昭和16~20年は唯一残された当時の学長の20年の日記を除いて
まったく資料がなく、空白の歴史(芸大が戦災で消失していることも大きい)となっており、
16年の事細かな学校行事、カリキュラムが残されている村井先生の日記は
その空白を埋める、大発見、だそうで、
先生がこういった形で芸大に
名を残すとは、先生自身、想像もされていなかったのではないだろうか。

 

村井先生は、そのたった1冊だけ日記を残してなくなられた。
日記は、遺品整理をしていた息子さんが見つけた。
作業場の上には、天井裏を改造して作られた収納があり
天井のハッチのようなものを空けると梯子が下りてきて
昇降ができる。
普段は先生以外誰も踏み入れない。
その階段を上ったすぐ目につくところに
その日記がぽつんと置いてあったというのだ。
昭和16年、太平洋戦争に突入した年
先生は当時東京美術学校(現在の東京芸大)の3回生であった。

 

その年の元旦から大晦日まで、ほぼ毎日の生活の様子、学校の出来事行事、進路の悩み、親類家族のことなどが、
先生らしく事細かにまじめにつづられている。

他に、当時、日中戦争で大陸に出征している従兄との往復書簡が
なんと!すべて書き写しで記されてあったりもする。

 

その日記を、先生の奥様と姪子さんが活字に文字起こしされた。

 

日中戦争から、太平洋戦争に突入してゆく庶民の目線、学生の目線が生々しい。
例えば、戦意高揚に関係しない俳句部(先生が所属)が
廃部にされそうになって抗議したり、
いろいろな名称などが戦中用に変更されたり
じわじわと国家総動員されてゆく「空気」が見える。
16年前半の日中戦争中は、銃後の守り的なちょっとした高揚感と
なんとなくのんびりしたムードも描かれている。
が、太平洋戦争になると、ガラリと変わる。
ここから見えるのは、
国家も「かなり厳しい」戦争になることを「はっきりと」予見していた、
ということ。
村井先生は、繰上げ卒業、最初の学徒出陣となるわけだが
16年の日記なのでその後は描かれていない。
入隊し、身体を壊し除隊になり、南方に送られることはなかったが
友達はほとんど、南方への輸送船で撃沈されて亡くなっている。
きっと、このことを、ずっと胸に秘めておられて、
この日記を目につくところに置き続けたのでないだろうか。。。

 

この日記に登場し、先生と戦地から往復書簡している従兄(少尉)は
大陸から南方の激戦地へ転属となり敗戦となり捕虜となって
帰国後、長生きされたらしく、南方の戦争体験を出版もされている。
それが頭の片隅にあり続けたまま、
今年、大岡正平の「野火」が何度目かの映画化をされ(観てはいない)
さらに、湯川さんの人質事件で国家に見捨てられる様子が自分の中で結びついて
ずっと気になって躊躇していた(気力と気合がいる内容なので)小説版の
「野火」を読み始めたのだった。
偉大な小説家の実体験を伴った小説ゆえの、身震いする臨場感覚。
レイテ島の負け戦のさなか、
結核で国家から見捨てられた中年の日本兵(軍人出身ではない)の孤独な敗走が描かれている。
人間としての存在、尊厳の究極を問われるところまでおいつめられてゆく地獄絵図である。
また、生命の根源的なテーマが描かれているからだろうか、戦争など知らないこちら側の現実をグイグイ侵食してくる。。。

(このような経験をした人達が、戦後の日本で生活してきたわけだが
国家というものをどう見てきたのだろうか?)
戦後、どんなことをしても、どんな国民をも守るという、意志を持った国家に日本は変貌したのだろうか?
それが問われたのが、2015年ではなかったか。

それがない限り、「国家」としての強さなど実現しない、と思う。
いくら勇ましい法律が今後いくつできても。

 

一個人として切り捨てられた湯川さんや後藤さんは、きっと遠くに
野火の狼煙がたなびいているのをむなしく見たはずだ。
。。。。。。
国家にふりまわされ、悲惨な経験をした満州帰国組みで
幼少期に悲惨な体験をしたのが、赤塚不二夫だったことをはじめて知った。

 

そのきっかけは
奥成達さんが亡くなって「御別れ会」が開かれた11月の新宿の会場に置いてあった本の中の1冊
「破壊するのだ!!赤塚不二夫のバカに学ぶ」
その中に、達さんのインタビューが載っていたので帰りに本屋で買い求めたことだった。

 

奥成達さんの奥さん、ながたはるみさん(イラストレーター,エッセイスト)が自宅で開いていた絵画教室に、小中学生の頃、通っていた。
当時は森戸神社(葉山)近くの入り組んだ路地の奥の、古い2階建ての借家に住まわれていて、
葉山でも海辺の漁師町の風情が色濃く残るところだったが、
その頃はヨットの合宿をしている人々のサンダルにつけた砂がアスファルトに白く光って溜まっていた。
そこの1階のリビングが教室の日だけ開放されて絵を描いた。

必然、達さん(以降、奥成さんのおじさん)が家に居る時には、しん君、しん君、と、かまってもらった。
なぜか、こういう時になって、声色や言われたことなどを、はっきりと思い出すもので、
「しん君は、マジメだからさぁ~」とあっけらかんとしたカラスがひと鳴きするようなトーンの口調、
カラッとした笑顔でよく言われたことを思い出したりした。
(今、おじさんのやっていたことを知って、そりゃあ私がバカマジメに見えたことだろうと思う)
子供にも、大人のように話す、というか、誰にも同じように変わらなかったように感じた。

たとえば、こんなことがあった。
しん君さぁ~、とはじまって、「モンティパイソン」のビデオの全集がさぁ、税務署で経費とみとめられないんだよぉ~、
まったくぅ、なんかいい考えないかなぁ~。。。と小学生の私に税務相談がはじまったのだった。

口ひげに、色の薄いレイバーンのようなサングラスをして、髪はくせっ毛の鳥の巣のようなおじさん。
だけど、危険な感じや怪しさは微塵も感じない、不思議な存在であった。

当時は、奥成さんのおじさんが、どんな仕事をしていたのか、まったく知らなかったし、興味も別段なかった。
ただ、ジャズピアニストの山下洋輔さん(当時葉山在住)と仲が良く、
その息子のK君も同じ絵画教室で肩をならべていたので(奥成さんの息子のYくんも)、
そんな関係の何かなのかな~くらいに思っていた程度だった。

高校生になったころだったか、おじさんが、当時の葉山の図書館の館長さんと仲よくなったらしく、
新築されキレイになった葉山図書館で今でいうワークショップのようなものをやるようになって、それに出席するようになった。

今でも覚えているのは「悪女とは」といったお題。
田舎の高校生に実際「悪女」なんて、わかるはずもなく、
おじさんが作ってきたレジメの悪女とは、という羅列を読み上げるのを聞いていただけだったように思うが、
今になって思うと、そういった「遊び」のようなことを

タモリや赤塚不二夫なんかとワイワイ飲み屋でやっていたのをそのまま持ち込んだのだと思う。

 

何回目かのワークショップで、キノコの研究家のおじいさん(故人)が葉山に住んでいて仲良くなったことに触れたことも覚えている。
なぜ覚えているのか?けっこう衝撃的な内容で、そのおじいさんは山中をうろついては、危険なキノコを食べ、
2,3日山を彷徨するといったことをしているというのだ。
そんなことを嬉々として語っていた。

そういった興味が著書にむすびついていったのではないだろうか、と想像される。

法律にも慣習や既成概念やイデオロギーなどしばられない「フリーな人」。
菊池成孔(ジャズミュージシャン)には、日本のビートニクと呼ばれたりしているが、
輸入の思想体系に属すものではなく、日本の時代的必然性が生んだ、
被り物ではない肉体と魂そのものが、ビートニクの様相を呈していたのが奥成達さんだったように、思う。
全然ファッション的な、浮ついた、ものは感じなかった。
幼少期に受けた現代詩の洗礼をそのまま生きた人であったように感じる。
それは、編集ということに関しても変わらないスタンスだったのではなかろうか?

置かれた色そのものを感じ楽しむ絵画のようように、音楽のように、意味などの追求ではなく、
また、そこにイデオロギーや思想信条などの介入を許さず、
大上段にふりかぶったり、見栄を切ったりせず、
飄々と、とにかく感じるままに、おもしろいと思ったことを、「純粋に」自由にやったのだ。
それを貫くのは簡単そうで、凄くむずかしい。

 

それを漫画で表現したのが、赤塚不二夫であり、芸で見せた(おもしろがらせた?)のがタモリであろう。
パロディー、ナンセンスギャグ、などで見せた。

奥成さん一派のプロデューサーがタモリを表舞台にのし上げ、やがて、「ひょうきん族」、「笑っていいとも」のプロデューサーとなり、
時代を作ってゆく。

ナンセンスな笑いを、子供だった私はただただ面白おかしく御茶の間で楽しんでいた。
「天才バカボン」をテレビアニメで毎週楽しみに観ていた。

その、もっとも源泉が、すぐ近くにありながら、まったく知らなかったし、感じもせずに。。。。
なんでもそうだが、その源は、実にそっけない顔をしているもので、
鼻の利く狡猾な人々がエッセンスを抜き出し演出し、
それにあこがれる人々が換骨奪胎し、毒を抜かれて世に広まるものだ。

やがてそれらは劣化して霧消してゆく運命が待っている。
いまが、パロディーやナンセンスにとって、そんな時代かもしれない。
(コミケ文化は元気みたいだけど。。。)

 

そんな文化論は、さておき、奥成さんのおじさんに、最後にいただいた著書は「宮澤賢治、ジャズに会う」だった。
亡くなる6年前の著書。

その頃、病気のことも、治療方針なども風のたよりで聞いており、
せつない思いで連絡などして、その返礼でいただいた著書だった。

まじめな、論考で、宮澤賢治の1篇の詩をとっかかりとして、
戦前戦中のジャズ史を駆け抜ける、かなりおもしろい視点で描かれている。
世相や文学、世界史などと、ジャズ史をいったりきたりするので、
ジャズに詳しくない人にも充分にわかる読み応えがある内容、意外な発見も沢山あっておどろかされる。
先の村井先生の日記にも関連するのだが、戦中の音楽、風俗規制事情などが詳しく描かれている。

そして、奥成さんのおじさんは、詩とジャズで幕を閉じる。
。。。。。。。
村井先生が亡くなって、いろいろな関係者に先生のことをインタビューしてまわった。
先生があまり自分のことをおっしゃらない口の重い人だったので、
先生の足跡が時間とともにどんどん消えてしまう危険があった。
先生の経歴など詳しいことを調べるためには、どうしてもインタビューが必要だった。

それで、びっくりしたのだが、どの人からも、まったく違う人物像の先生が語られたのだ。
なぜだろうな~、と思っていたのだけど、ある時ふっと、それは、その人自身の見方とフィルターが見た先生なのだ、と気がついた。
先生を語っているようで、実は自分自身を語っているということだ。
そして、そういった他人の総体が一人の人間の像を作っているという不思議な真実を知った。
本人の思い、考えが、その人の人格を作っているわけではないようだ。

「破壊するのだ!!赤塚不二夫のバカに学ぶ」で赤塚不二夫を語った面々も、赤塚不二夫を語っているようで、
実は語っているその人自身が見える。
たぶん、無名の奥成達さんの記事の赤塚不二夫像が、一番真実に近いのだろう、と感じた。
他は、かなり色がついているんじゃないかと?

「野火」の中では、神について語られる。
常に神は黙っていて語らない。
その神に姿、形を与えるのは、ソレを求める人なのだ、といったことが描かれている。

 

人は実態があるので少し違っているけれど、似たようだな、と思った。

 

自分にとって村井先生と奥成達さんは自分のやりたいことに正直でそれを貫いた人。
私が与えた形はそういった形。
でも、かなり真に近いと思う。
なぜ、そう言えるのか?
それは、先生の日記(先生が実際感じていること)と、自分の先生の印象にブレがなかったから。
奥成達さんについては、子供世代から見た「おじさん」という側面を主に、書き残しておこうと思った。
きっと、こういう側面からの記憶は、誰からも、なかなかでてこないと思ったから。
誰の遠慮もないので、「事実」しか書いていない。

 

死にわかれる、ということは2度と会えないということ。
最近、その重たい事実が身にしみるようになってきた。
天国で待っていて、また会える、って信じたい。
それまで、はずかしくないよう、生きていかねばならぬのだなぁ。
そんなふうに、よく思う。
11月に書きはじめて、年をまたぎ、1月も後半になってしまった。
武蔵野の林は、ジャズの演奏も終わって、静かな会場となり、白い雪が舞い降りて
小鳥の声だけが、遠く、小さく、響くばかり

 

2015/10/12   HP移転完了

 

朝晩、足元の電気ストーブをオンにして
秋が少しづつ濃度を増してきたことを、やっと、実感する。
だらだらと夏のように暑かったり、急に寒かったりで
植物も季節がおかしくなってしまったようで
この時分漂う金木犀のさわやかな香りも、
9月早々に散って終わってしまい、
なんとなく味気なく気の抜けた秋の涼やかさだけがあり
それは、まるで冬の寂しさのような気配なのだけど
武蔵野の林は緑濃い晩夏の風情で
何か遠近感や影の配置が少しおかしい絵を見ているようで、おちつかない。

 

そんな、時空のおかしな世界で、いろいろ至らないところもあるが
HPの移転を完了させた。

 

HPの移転準備で作品画像群を掘り出し、並べたり編集したりしていて、
自分でいうのもなんだが、面白いものを作っているな~と思ってしまった。
しかし、その理由は、出会って作らせていただいた人の多様さにあり、
自分はオーダーされた人や家や持ち物と対面して感じ取り
それを梳いたり漉したりするフィルターのような役目と
実現させる手足のような役目を果したにすぎない。
たぶん、自分に作風というものがあるとしたら
そのフィルターとしての特徴にあるのかもしれない。
なかなか感じとれないものだけど、
沢山並べてみると、なんとな~くそれを包んで纏っているのが見えてくるような、、、、
ま、そんなものなのか。

 

まあ、そんなことを思いつつ作品群を眺めたりした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
20年以上の家具製作を振り返ってみて
完全に変わってきた感覚がある。
それは、材木に対する感覚で、節や傷に対して寛容になってきたこと。
若い頃は、そういったものがない材だけを選び使う感覚だったが
あらゆる材木のあらゆる面をいとおしく感じるようになってきた。
時々、節無し、柾で、みたいなことを若い人なんかに言われて
ハッと昔の感覚を思い出したりすることがある。
木を素材から樹木として捉えるようになったように思う。
それは、人間の捉え方にも通じている。
人の凸凹や癖こそ味。
そう強く感じるようになった。
強烈な個性みたいなものを指してのことではなくて
普通に暮らす、普通の人々のそういったもの。

 

だんだんと、自然にそんな感じになってきました。
さてさて、今後はどう変わってゆくのでしょうか?
なんだか、時代や時流とどんどん乖離していきそうで怖い。
でも、その先を、まだちょっと見て感じてみたい気もする。