こと

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「小さな木箱に刻んだ小さなことがら」

真吉のほんの周辺でおきているものごとについての記録です。
(過去の記録は題字からリンクしています。)

2017/8/24 バタ足の軌跡

7月は信じられない猛暑が続いた。
南関東の多摩地方はカラ梅雨で、はやくから真夏日が続いたせいか、
ずっと真夏の中をのたうちまわっているような気がした。
例年より早い登場のニイニイゼミの鳴き声が耳鳴りのように響いていた。
冷房の無い工房は38度、換気扇と集塵機がボーボー吼えていた。。。
この温度の中、もがいていて、ふっと、この感覚、どこかで味わったことがあるような、、、
と、思考停止しそうな意識の中から

昔の記憶がジットリと汗のように浮かび上がってきた。

それは、プールの記憶。高校の水泳部の炎天下でのバタ足の練習だった。

真夏。プールの前を走っている陸上部からは、妬ましいような視線を浴び、
練習を終えたラグビー部の連中が乱入して飛び込んでくる真夏のプール。
だが、たかが高校の25mプール、水量も少なく、水温は30度近い。
幼児用プールのあのヌルさである。
その中をハードに練習で泳ぐのは辛い。

むしろ陸部やラグビー部の想像する涼しげなプール像がうらやましかった。
ちなみに5月、プールの水温が15度を越えると練習がはじまる。
もちろん皆、唇は真紫になる。
今思うと、それが、できていたことが信じられない!!

そうそう、バタ足。
バタ足が苦手。
バタ足の練習はビート板を両手に持って頭は水面に出してバタ足だけで進む、アレ、なのだけど。
どうしても速くならない。他部員の半分くらいの速さなのだ。

足が小さいこと足首の硬さなどが関係している、と今なら分析できるのだが。。。
練習しても速くならないことは苦しい。
そして、皆がゴールしてしまっていて、私の到着を待っている風景を見ながら必死でバタ足しつつ進まないのはもっと辛い。
喘いでいる口からプールの水がガブガブ入ってくる。
インターバルの時間内にゴールできなければ、容赦無く次のインターバルのスタートの声がかかる。
と、遅れている私は休むことなく永遠に止まることなく泳ぎ続けることになる。。。

その苦しさを、思い出してしまった。

しかし、ゴールはある、という確信をその時学んだ。
そこで、足を着いてやめることだってできるけど、
泳ぎきったところに、1人、自分の納得だけがあった。
もちろん、誰も褒めてもくれない。
それが、毎日の練習の、まず初めのメニューにあったのだ。

あの頃の、「誰の為に」とか「自分の為に」でもない、
意味のわからないような頑張り、に比べたら、
今は、その先に喜んでくれる人の顔を想像できる。
そのモチベーションは計り知れない力になる。
それでも、辛いことはあり、それを乗り越えられるのは、
あの頃の体験があったからのように思える。
今思えば、清いような、尊いような、そんな気すらする。

8月も終盤になり、なんとか、なんとか、真夏のバタ足の練習が終焉を向かえた。
ふっと我にかえったように視界と知覚が開けた。
雨に打たれて、白い鉄砲ユリが庭に咲いていた。
黄色い蝶が、工房に入ってきた。
ツクツクボウシが鳴いた。
アキアカネがぴゅんぴゅん空を飛んでいる。
コオロギがコロコロ鳴き始めている。

さぁ、また、次のインターバル。
がんばろう~
「バタ足の 軌跡は雲に 秋の空」

 

2017/6/22 子々孫々

永かった風邪からやっと抜けた、と思う。
「麦の秋」と言われる頃にアレルギーからの風邪パターンが数年続いている。
更に、ここ数年急激に気温が上昇してフェーン現象のような風の吹く日が
とても多くなったことも、永い風邪に関係しているように思う。

少し色づいたアジサイも、乾いた強風に煽られてしんなりしている。
そのアジサイの下は一面のドクダミの白い花が咲いていて、
夜、ほんの少しの明かりに輝くような白が、
はっとするほど美しく、
夜空の星群を思わせて、見とれてしまう。

最近、ふっと思い立って、高校生の頃の自転車通学路の中ほどにあった里山を歩いてみた。
(1時間1,2本のバスを見送ってしまったことがきっかけなんだけど)

15キロほどの自転車通学には恐ろしく厳しく長い急坂の峠が2つあった。
その2つの峠の間にある。
歩けば30分ほどの里山で、南北を山に挟まれ東西に長い。
中央に川が流れ、その川が運んだ土砂で堆積してできた両岸の平地を
田畑に切り開きできた、こじんまりとした農村といった風情のところを
突っ切って、高校生の頃一心不乱に自転車を漕いで高校まで通った。
おまけに水泳部だったのだから毎日トライアスロンをしていたようなものだ。

時間のある帰り道、春のような陽気の日は、自転車を降り、押しながら里山を迷い歩いたりした。
当時は茅葺の家屋も散見され、田には水が満ちキラめき、畑は青々としていて、
蝶が、ゆっくり、ヒラヒラ舞う光景は学校で習った桃源郷を思わせるものがあって、
見ているだけで幸福感に満たされた。

20年後、「風景」は想像していたより変わっていなかった。
大事な宝物のような記憶だけに、書き換えるのが怖いような気がしたが
今の風景の中に、残像のように残っていた。
これが市街化調整区域の力なのだろう。

ただ、変わったのは「印象」で、荒廃の色がうっすらと漂っていて目についた。
それは、本当にちょとしたところで、例えば、道端の雑草の茂り、御地蔵さんの祠の佇まい、川一面に生い茂る葦、
休耕田の増加と資材置き場の増加、学校帰りの子供達の少なさ、、、そんなことなのだけど。

全体が桃源郷のキラめきに覆われていたのが、極々限られたところに散見されるまでになっていた。
そこは、しっかりと手入れの行き届いた農家周辺だった。

風景は変わらないけれど、ソレを維持していた農家が減少してしまったことによる荒廃なんだと気がついた。
ソフトが変わってしまったんだな。。。

20年前、まだ明治生まれの人が息づいていた。
今は居ない。20年は意外と永い。

自然との関わりの中に、民族の文化と歴史のすべてがつまっている、
と自分は思っているのだけど、こういった風景を見ていると、その意味を強く実感する。

世相もよく見える。
新しい家は、縦のつながりを意識しない1世代限りの佇まいであるにも関わらず半永久みたいな素材で武装している。
古い家は子々孫々の佇まいなのに、骨格だけのよう。

エコロジーとか循環型社会とか言うが、もっと生物的で根本的な大きな円をみた時、
そういった風通しのよい骨の中を子々孫々繋いでゆくことが、正解なのかもしれない、と思った。
それなら、自分はあきらかに不正解の中に居るのだけど。

これからの20年後の風景はどう変わっているのだろうか?
新しい美しさを身にまとっていて欲しいなと思う。
子々孫々は血ではなく、養子のような形で繋がっていければいいのに、と願いつつ。
取り戻せない、美しさ、一期一会だな、と心の奥まで沁み入って、バス停にたどりついた。
すぐに来たバスは峠にさしかかった。

遠く見渡す竹林は20年前と変わらず涼やに風に吹かれていた。
もう感傷から楽観へ、希望がじんわり湧いてきた。

2017/5/5 春雷

3月の終わり、春雷が鳴って激しい雨が降り季節が一気に入れ替わった。
[春雷や ヒビ割り落とす 凍り空]
バリバリと激しく冬の空が剥げ落ちて、新しい春の空が覗いたように感じた。

寒さが長引いたせいで、桜はながかったが、異例の夏日が続いたりして
順番待ちをしていた春の花々が、押し出されるように一時に咲いて、
緑が吹き出し、あっというまに初夏のようになってしまった。
車のハンドルを握る腕が緑に染まるほどの
キラキラの新緑の玉川上水沿いの並木が気持ち良い。

4月、とうとう工房前の道路拡張工事が終了した。
2年くらいかかったのだろうか?
以前の1.5車線くらいの道が、2車線になり両側に6mずつ歩道ができた。
4倍以上の広さになったことになる。
旧日産の白壁も無くなったので、だだっ広い公園のような風景が広がる。
ついアクセルを踏みたくなる光景だが、
制限速度30キロ制限と非常に意地悪な設定で、
白バイが隠れ常駐してい、捕まる人が非常に多くなった。
サイレンの音が五月蠅い。
工房にいらっしゃる際は充分に注意されたい!!

この新しい光景の広がる、工房を訪れる人々の感想がそれぞれでおもしろい。
好みの問題だけど、自分は、昔の、閉じた、打ち捨てられたような、ひっそりした環境が好きだった。
自分と同じように、昔の方が良い、と言った人はたった二人。

かなりのマイノリティー。数寄者。
新しい光景は、切り取り方で北海道旅行のパンフの写真のようでもあるから
嫌な光景ではないのだ。「丘」がイイ仕事をしていると思う。

道路ができてゆく工程をずっと見てきた。
標識の多さ、路面へのペイント、縁石、外灯やミラーは必要としても、
それらが足されてゆく工程をみていると、
道がどんどん狭く、ワサワサと感知されるようになってゆくのがわかる。
不思議なもので、風景の中から引き算を想像することは難しいのだな、
ということを目の当たりにした。
北海道のような光景に、そういった夾雑物がなかった道の状態が
一番しっくりときていたし、車で走っていて気持ちが良かった。

AI搭載の車が普及して、そういった道路情報を
すべて車が感受するようになったら、道の光景はごくシンプルなものに
変わるのだろうか?
それとも御役所が予算確保のために、
新しいアレヤコレヤを付足しつづけるのだろうか。

道が大きくなって人が小さく遠くなった。
五月晴れの下、小型犬のように小さくなった人影が、所在なげにゆっくりと移動してゆく。
走りまわる子供達だけが、風景に倣って伸びやかにみえる。
なるほど、この風景に馴染むには、新緑のような若々しさが必要なんだな。

2017/3/25 春乾季
乾季、雨季、パッキリ。
雨がほとんど降らなかった東京の冬~春分。
思い起こせば、去年の梅雨のひどい長雨。
ほんとうに熱帯化しつつあるんだなぁ。

季節感が、自分を構成する要素として大きいことを実感している。
その喪失は大きく自分を狂わせている。
たとえば、時間の感覚。ドーっとなんとなく時が押し流れてゆく。
車の中からウインドウ越しに風景を見ているような感覚で実感を伴わない。
と、カレンダーを見てハッとするほど時が過ぎているのに気がつく。
皮膚感覚のセンサーで気がつかない。

視覚も少しおかしい。
春の花や芽吹きに喚起がこない。
なぜだろうと、観察して思ったのは、花の開花時期が狂ってきていることが1つ。
それから、乾燥していることが大きいと気がついた。
春の「しっとり」がないことが、「艶」を奪っている。
春のしっとりやわらかな黒い土の包容力も
灰色の砂塵に洗われて感じない。
何かもやもやと、春のはしりを過ごしてしまっている今日この頃なのだ。

しかし、あの6年前原発が水蒸気爆発した映像が流れた
東北の震災の3月から、何かがおかしいのだ。

あの時の「絶望感の春」の体験が、消せない。
どうも、あの時、薄い膜のようなフィルターが、
外界との間にできたのだと思ったりもする。

昼間に計画停電で車内の電気を消した電車に乗った。
電車が駅舎にすべりこんでゆくと、駅舎の屋根の影で車内が真っ暗になった。
乗っている人もまばらだったが、
車両の横長の椅子に、
脚まで投げ出して寝そべっている大学生くらいの若者が居た。
誰も注意はしない。
そこに、「絶望」が横たわっているのが見えたからだ。
かける言葉もないじゃないか。
単身東京にでてきている東北出身の学生かもしれない。
忘れられない光景の一つだ。

毎日、強い風が続いた。
時間があれば、パソコンで原発付近の風向きと拡散状況をチェックした。
したところで、であるのだけど。。。

明日、人類が滅びるとしたら何をする、
という問いに、今までどおり暮らし続けるだろう、という答えを得た春。

あの時の絶望。
そして、国家権力の振る舞い。
擬似、戦時下、体験といっても良いのかもしれない。

あの時、東京の消防隊を送り込んだ石原元都知事は6年後
弾劾の的になっている春。
オリンピックが開催されることになるなんて想像もしなかった春。。。

今春は、家に来るメジロ達に混じってウグイスも来るようになった。
そのウグイスの初鳴きは、遠慮がちで小さな澄んだ鳴き声だった。
無邪気だった春とは別の、
乾いた春のささやかな潤いは、音から来た。

 

2016/12/29 うれしかったこと

今年の冬も、西の丘の上に立ち並ぶ夕焼け色のトウカエデの大木の並木は、
律儀に北側の梢の先の葉から段々と落ち葉になって散ってゆき、
南の端まですっかり丸裸になった。
夕日に丘の上の枯れ木の巨人たちが黒い影となって居並んでいる。
何かの罰でも受けて立たされ、痩せ細り、夕日を見て泣いているかのようだ。
冴え冴えとした空気が身を切るように冷たい。

師走が容赦なく猛スピードで走ってやってきた。
その足音を後頭部に聞きながら、つらかったことより
今年のよかったことだけを思いだそうと決意して振り返った。
師走が突き出したバトンの向こうに
人々の顔が見えた。
やっぱり、よかった、そう思った。

何人もの、何家族もの素敵な人々に家具をとどけられた。
幾人もの人々の深い情けに助けられ、なんとか年末までたどりついた。
気持ちの良い晴れやかな笑顔だけが思い出される。
その気持ちにきちんと応えられてきたか、
今の精一杯で返してきたつもりだが
反省はいなめない。
来年こそ!!

その中でも焼き印のように心に刻まれた人がいる、10年ぶりの再会をした。
それは、車を持つ前によく使っていたレンタカー屋さんの店員さんだ。

今晩は徹夜覚悟、明日は納品という日の夜、半年ぶりにトラックを借りに行った。
と、その人は中年のおじさんの姿で居た。
あの、昔、この店に居ませんでしたか、と声をかけた。
「やはり、そうでしたか、覚えていてくださりありがとございます」
と返事が返ってきた。太って、禿げました、と笑ってお腹をさすり
10年ぶりに帰ってきました、と付け加えた。
私のことを覚えていてくれた。

10年前、その人はまだ青年の匂いをただよわせていた。
さりげない丁寧な対応で、丸い顔がなんだか人好きするような、そんな人だった。
なぜ、そんなに印象に残っていたのかというと、彼が他店に移動する時に
「真吉さんにはほんとうにお世話になりました、他店に移動になります~~~」
という挨拶をされたからだ。
常連意識も特になかったし、高級車を借りているわけでもないので、
びっくりしてしまった。
そして、あたたかいような気持ちがこみあげてきた。
ドライになりがちな、例えば良く行くコンビニやファーストフードの店の店員に言われたら、と想像してみたらわかるだろう。
レンタカー屋さんの店員は、移動が多いのか、2ヶ月くらいでコロコロ人が変わる。
その後、そんな店員さんが現れることもなかったし、普段の暮らしでもなかった。

だから、深く印象に刻まれているのだ。

10年ぶりのその人は善良さに磨きがかかっており、
車の誘導や、歩道の通行整理で
通行人がにこやかに頭を下げてしまう魔法のような風格を備えていた。
神様なんじゃないか、と思った。
それから工房に帰って徹夜に突入していったのだけれど
心が折れそうになるのを、その一事がずっと支えつづけた。
人だな、結局、ああいった人が人を幸せにするんだな、という思いが
一晩中支え続けた。そして、良い仕事につながったと思う。
納品先でその家具類を喜んでもらえた。
そんな連鎖がおきた。

もし、神様がいて、
今年、何かを教えてくれようとしたのなら、
きっと、そういうことだったに違いない。
たとえ、動乱と天変地異に世界がおおわれようとも、
このことを忘れないでいようと思う。

少しでも穏やかな2017年になりますように。

 

2016/10/15 ようやく

車のドアに触れるとピリッときて、ハッとなった。
振り仰げば空は晴れているし、いわし雲も泳いでいる。
関東では50年ぶりだとかいう以上な秋の長雨に一ヶ月ほど降り込められ
ベターっとした灰色の空や風景が夢の中まで侵食してきて
灰色に染め上げてしまい、
晴れている方が夢かと感じるほどになってしまっていた。
 
ようやくに晴れた、秋の乾いた空気だ!静電気だ!!(静電気は好きではないが、、、)
スイッチがパチリと入って目が開いたら、
いつのまにか赤く色づきはじめているピラカンサの実が目に飛び込んでき、
金木犀の芳香に気がついたりした。
長い息を吸ったり吐いたり、身体の中の灰色を、はやく追い出したいと思った。

雨の一ヶ月、灰色の風景が夢とのハザマを越えてくるような出来事がいくつかあった。
庭の八重の枝垂桜が咲いた。
春よりもずっと薄いピンクの花であったが、
雨に打たれているのを見て最初は目を疑ったが、現実だった。
続けて、ジューンベリーという6月に花をつけるベリーの木の枝先に
一群の白い花房を見つけてしまった。
そして、工房の朝顔。
通常の花は、白地に紫の点々が5、6粒放射状に入っているのが鈴なりになっているところへ
紫だけの花が一房だけ混じって咲いていた。
植物に限らず、他にもイロイロな不思議な出来事がおきた。。。
現実と思いこんでいる世界の境界線が怪しくなってくるのも無理もない。

雨に降り込められて、本を開いた。
『中心の移り変わりで読む 一気にわかる世界史』
秋田総一郎さんがこの秋上梓された本。
秋田さんは「団地の書斎から」というブログを発信している。
数年前多摩の公団を安く購入して建築家にリノベを依頼して住んでいる。
近頃話題の団地をリノベーションして住むハシリだと思うが(その前に聞いたことがなかった)
その時、家具を納めた縁で今も仲良くさせていただいている。
こつこつ書きためたブログが編集者の目にとまってこのたび出版となったようだ。

秋田さんは「要約の天才」と言っていいと思う。
例えば、偉人などの功績などを数行でまとめて、かつ、読ませる。
このたびの本は世界史の入門者(でもわかる)向けらしいが、
ここまで簡略化するか!と驚くほどなのに、ポイントはしっかり押さえていて
でも、やっぱりおもしろく読ませてしまう。
言葉でムズカシければ、図などで簡略化する。
それは、誰が見てもわかるように、ハッと気を引くように、工夫されている。
つまり、プレゼンが上手。

秋田さんのブログを読んでいると「楽」という漢字が浮かびあがってくる。
生活を楽しむ、楽に生きる、楽に学ぶ、
そういった楽のための方法を提案されているように感じる。
陰惨な事件から、日常ちょっと小耳にはさんだ雑談まで、
不安でざわつきがちな出来事を、ちょっと視点を変えてみてごらん、
心がちょっと楽になるよ、と言ってくれる。

世界史の本も同じで楽々と心を「楽」に導いてくれる。
例えば、曖昧模糊、不条理きわまりない人類の歴史に法則のようなものがあることを説いている。
法則とか公式とかの持つ「絶対さ」の力強さたるや、なんという安心感!!
ほんの少しだけ、気持ちが楽になる。
気持ちが疲れた時に星空を見上げて
星座が天球をゆっくりと回ってゆくのを眺めて癒される感覚に近い気がする。。。

現実にしっかりつなぎとめてくれる本で、なんとか異界にひきづり込まれることなく
雨の1ヶ月を乗り切れた。

しかし、だ、せっかくの秋晴れスイッチオンも、また灰色の日々である。
そんな暗い灰色の夕方、散歩をしているとき、初雁の渡りを見た。
昭和記念公園方面から、Vの字の編隊を組んで低空飛行でこちらに向かってくる。
白鳥ほどの大きさの20羽ほどの編隊だ。
初雁の渡りを見るのははじめてで、へーッという大口を開いて空を仰いでしまった。
そのアホ面をその中の一羽が長い首を傾げて見たのが見えた。
それほど低空だったのだ。

夕闇とのあわいの空を、多摩湖の方角に悠々と去っていった。
そのことを、明日行く予定のガラス屋さんに教えてあげようと思った。
ガラス屋さんとは鳥話で盛り上がれることを最近知ったのだ。

次の日伺うと、ガラス屋さんが言う。
昨日の夕方、初雁の渡りを見てさぁ~昭和記念公園の南側を車で通っていた時
低空で前を横切って、昭和記念公園にでもゆくのかな、と思ったんだよ。
あんまりめずらしいので教えてあげようと思ってさ。

その群れは、記念公園を飛び越え、
私の上を飛び越えていった。。。
まだまだ、不可思議が続いている。

2016/8/14 夏の風のお話

 目の奥まで焼け焦がすような夏のすさまじい光線に、目が開けられない。
いつの夏からか、サングラスの必要を強く感じるようになった。
だからか、今時分に咲く鉄砲ゆりの白は、昔よりずっと、まばゆく輝いてみえているはず。
北の行き止まりの路地の奥に揺れていた鉄砲ユリが、風で運ばれ、
いつのまにか道々の道路脇に咲いている。

コンクリートとアスファルトのほんの隙間なのに、立派な花房をいくつもつける。
どこに栄養があるのか、水はどうするのか不思議でたまらない。
1年目に少し南下、2年目はそれより南に伸ばし、
今では道を縁取る路地灯のように白い鉄砲ユリが揺れているのだ。

また、住人も植物好きが多くて、誰かの庭に変わった品種の花など咲いていると
訪ねてきたり、あげたり、もらったり、とよく知っており、ユリを引っこ抜いたりしない。
越してきた最初の頃、そうやって鉄砲ユリの苗を何株かいただいた。
増えすぎちゃって、とおばあちゃんが、ポット鉢で。

そのユリは何年も立派な花を咲かせたが、ある年、ふっと芽もださなくなった。
不思議に思ってしらべてみると、どうもそんな花らしい。
一説には、肥料をやってはイカンとか。
荒地を求め、風に乗って旅をつづける鉄砲ユリ。
なんだか高潔でかっこいい。

 そんなユリを眺めていると、物悲しいピアノの音が
ポロンポロンと遠くから風に乗って運ばれてきた。
夏になると、どこか遠くの家から毎年聞こえてくるのだ。
耳を澄ますと、やっと音をたどれるくらい。
風向きで聞こえたり聞こえなかったり。
上手ではない。
片手で指を慎重に鍵盤にゆっくりと落としているような弾きかたで
今年は、「峠の我が家」のようである。
去年は、映画「太陽がいっぱい」のアランドロン主演のテーマ
その前は「ゴッドファーザー」のテーマ、「ひまわり」などなど
少し物悲しいような古い名画の名曲が多い。
1年に1曲づつ。

どんな人がピアノに向かっているのかいつも想像してみる。
おじいちゃんのような気がしてならない。
娘が嫁いで残していったピアノで練習をはじめたんじゃないかと。
あるいは、亡くした奥さんのピアノで、一緒に観た名画を辿っているのか。。。
夏の風向きは気まぐれで、ときどき、小さな感傷的なメロディーを運んでくる。
ーーーーーーー

 久しぶりに実家に、電車とバスを使って帰った。
海水浴シーズンは、渋滞で車が動かないからと、強く勧められ、
そうだった、そうだった、と早朝に家を出て、新宿湘南ライナーに乗り込んだ。
新宿から直通がでるようになってほんとに便利になった。
朝食も食べずに出たものだから、大道のバス停を降りて、スーパーで菓子パンを買った。
田舎なんで、ブラブラ食べながら歩きはじめる。
セミだけがやたら元気だなあ~、空がやっぱ広いな~とか
ぼんやり考えながら歩いていると、
急に、ピストルで撃たれたかと思う衝撃音で、手に持っていた菓子パンが袋ごと消えた。
と同時に、一陣の強風と黒い影が手許を通り過ぎた。
「アッ!!」とも「オッ!!」ともつかない大声をあげてしまう。
背中から音の無い弾丸のように菓子パンを打ち抜いたのは、トンビだった。
菓子パンをさらったトンビが、道を挟んだ向かいの家の屋根の上で
「ドヤ顔」で見下ろしている。
私が通り過ぎるまで、菓子パンには手をつけず、ジッーと目で追っていた。

鎌倉の海岸でトンビに、弁当やハンバーガーが襲撃される話は、10数年前くらいから聞かれていたが、
まさか、葉山の街中までそれが広がっているとは。

葉山でも10年で変わった動物がらみのことはいくつかあり、
台湾リス(もともと江ノ島のリスだった)が勢力を伸ばしてきて定着した。
アライグマも見られるようになり、近所のおじさんが、山の一本道で睨み合って対峙した話を聞いた。
とうとう、今年、ガビチョウ(雅美鳥)の鳴き声が山々にこだますようになった。
ガビ鳥は、中国からの外来種で、多摩にも多く居て、ヒバリやミソサザエのような鳴き声でとにかく声量があり、意外とうるさい。
数年前やっと姿を確認できて判明した。

少しづつ何か増えいる。そして、何かが減っている。
減っている何か、の方が見えづらい。
ーーーーー
 今年、上半期は、車に乗ることが多かった。
まず、花粉がひどかったことがあり、車で通勤することでかなり症状を抑えることができた。
そのまま梅雨に突入し、雨を理由に車通勤が増え、
自転車のパンクが重なったりとイロイロなことで、行き帰りで車が増えた。
そうすると何が変わるのか、をまざまざと知った。

外とのつながりが希薄になる。
と、内側の何かが乾いてくる。

車を運転しながら考えることと、自転車や歩きで考えることは、質が全然違う。
不思議なものだと思う。
視覚だけ、では自分には足りない。

自転車を自力で直して、少しコンビニまで、と走り始めたときに感じた、風。
ああ、コレだったな。眠っていた何かが活動を始めたのを感じた。
そして、こうして、書き記す衝動も沸いてきた。

地球ができて、風が吹いた。
そこから何かがはじまったように。

2016/6/22  眼差し

今年も庭のアジサイをドライフラワーにすべく、雨上がりの澄んだ朝に4房くらい摘んで
天井から吊るした。
今年はナリ年らしく、大きく瑞々しい青紫の鞠のような花房をいっぱいにつけた。 
庭には3株ほど大人の背丈ほどになる同種のアジサイと、腰丈の山紫陽花が一株ある。
子 供の頃、いや20代の頃だってアジサイという花は、どちらかというと好きではない花だった。
がさがさしたような大振りな葉、ジメッとした季節にカタツムリ やナメクジが這っているような印象が強くあり、
雨でグショグショの靴を玄関先で脱ぐ際、ふと目に入る玄関脇に植えられたアジサイに
八つ当たりの矛先を向け たように記憶する。

それが、今では、愛でる、といっていいほど好きになっている。
別に、どうってことのない、どこにでもある品種のアジサイなのに。。。
不可思議なものだ。
何かが変わった。
アジサイの色のように、自分の感覚も、環境や年齢で変化してゆく。

5 月、デザイナーのC氏から、木工の仕事の説明を生徒にして欲しいと頼まれて、はじめて教壇というものに立った。
C氏は熱心な先生で、モノをつくる現場を見 せたいと有志の生徒を毎年工房に連れてくる。
その度、刺激をもらうのは自分の方。
生徒達にどんな思いを残せてあげられているかは、わからない。
そして、今 回は訪問前に講義を、と頼まれたのだ。

教壇からは、こんなにも生徒達が見えるものだったのか、
学生として過ごした日々のさまざまな授業場面が浮かんできて、
先生って、なにもかも見えていたんだな、見てみぬ振りしてくれていたんだな、と気がついて、冷や汗が出た。

また、生徒達が、こちらに向けてくる眼差しの変化だけがレスポンスである特異なコミュニケーションに、とまどいまくった。

こ ういった体験は、実生活では皆無なことと、普段しゃべらずにモクモクとやる仕事なこともあり、
考えていて伝えたい事(心の中でしゃべっている言葉)が、的 確な言葉となってアウトプットされず、
どんどん乖離した状態になっていって、講義が終わり、用意したレジメを見たら、
肝心なことを伝えられてなかったジャ ン!と愕然としてしまった。。。。
結婚式のスピーチで祝辞を忘れるくらいの。。。
こういった経験も、勉強も必要だな、としみじみ反省したのであった。

そんな気持ちを16号線のアスファルトにズリズリと引きずりながら、車を走らせて、合板屋さんの感謝祭というのに行った。
梅雨っぽいムッとした暑さが、信号待ちの車を蒸し焼きにしているような日だった。

出入りの合板屋さんの営業のおじさんが、年に一度のその感謝祭に命をかけているらしく、
年 始年末の挨拶のタオルでもカレンダーでもポストに突っ込んでいくのが、
感謝祭のチラシだけはわざわざ手渡しにやってくるのだ。
かなり本格的な舞台と音響を 組み、何組かのプロのお笑い芸人が午前午後の2ステージ、
屋台や出店も無料で食べ放題、飲み放題!のかなり太っ腹な祭りで、
どうやら、営業のおじさんは芸 人の呼び屋担当らしいのだ。

今年は、キタ~!のモノマネの山本高広さん他で、関心したり笑ったり、舞台で観るお笑というのをはじめて堪能した。
講義での反省を引きずっていたので、芸人さん達の舞台での立ち振舞いに、ついつい目がいってしまう。
プロでも緊張しているのが伝わってきて、ああ、そういうものなのか、と少し安心したり、
目の配り方など、素人ながら、勉強になった。もちろん、できやしないけど!

舞台の上から必死に客の目の色を変えさせてやろう!としているのがヒシヒシと伝わってきた。

その舞台を見ている人の共通店は「その会社から合板を買っている」なのだけど
家族連れも多く、200~300人くらいが椅子に着座して、折りたたみの長机を前に焼きそばなんか口にしなが観ている。
合板だから、型枠工みたいな人達もいれば、大工さんや工務店、木工所の職人たち、
あるいはそんな会社の事務員さんたち、親方、おかみさん、子供たち、なんかもずら~っと来ていて、
世代も3世代くらいがゴチャゴチャとまじりあっている。

なんだろうか、その中に居ると、ものすごく落ち着いた。
皆、眼の奥がやさしい。

そのやさしさは、工人が備える独特のもので、いつも不思議に思ってきた。
その雰囲気が、その家族全体からも感じられる。
飾りっ気のない人柄の、カラッとした集団。
だけど、どこの公園や祭りに行っても味わったことのない不思議なおだやかさを
かもし出している。
一人、またはその家族が毎日繰り広げる「朴」とした明け暮れのさざ波が
寄せ集まって、それに包み込まれたような幸福感。

きっと、合板会社の社員さんたちも、それを見て、元気がでるんじゃないかな、と思った。
きっと合板がただの商品ではなくなるんじゃないかな、と。
 
元気をもらって、16号を引き返す。
渋滞もないので快調に飛ばす。
左手に見えてきた瑞穂の山々は、縄文の頃、栄えた場所。
緑は濃く、たくましい縄文人の姿を想像したりする。
梅雨の雨をはじくような、つややかな体毛に覆われた縄文人が
歩道に飛び出してきたりしないだろうか。
その人は、どんな眼の色をしているのだろうか。

 

2016/4/5  うた

すべてがやわらかく、ほぐされて、ふにゃっとなりそうな春のうららかな青空が広がった日。
玉川上水の桜並木のトンネルに一分咲ほど花の色が加わった日。
の、昼下がり、
工房で仕事をしていると、中学生くらいの男の子の歌声が聞こえてきて、仕事の手をとめ、窓の外を眺めた。
2人の黒い詰襟制服を着た中学生の男の子が、手に円筒形の筒を持って下校の道すがら歌っているのだった。

歌は、どう聴いても、卒業式に歌うような歌で、ああ、卒業式だったんだな~と、
うれしそうにじゃれながら去ってゆく2人の背を見送った。

工房の前の道は、小中学校の登下校の道になっていて、
ちょっとした成長のドラマを見かけることがある。その日の中学生で思い出したことがあった。

あれは震災前だったから、5年以上前だったと思う。
3人組みの中学生の男の子たちが、やっぱり歌を歌いながら帰ってくるのをみかけた。
最初は音楽の授業に習っただろう唱歌のようなものを
ただ元気よくリエゾンで歌っているのをほほえましく聞いた。
だいたい毎日のように歌って下校していた。

人が道で歌っているなんて、最近あんまりないし、まして、誰に聞かせるわけでもなく楽しく歌っているのだから、
聞いているだけで、なんかいい感じだった。

それが、1年くらいして、ちょと古めの歌謡曲からニューミュージック(死語?)へ、そしてJPOPに変わって、
しかもグリーみたいにハモリが入ってきた。うまくなっている!!

けれど、しばらく、そんな歌声も聴かれなくなって、やっぱり1年くらい経って忘れていた頃、
その3人の歌声が聞こえたのだ。

なんと、ラップ!!しかも超絶うまい!!!
きっと、中一で歌う楽しみを覚え、中三でラップにたどりついたのだろう。
その後、その子達の歌を聞くことはなかった。卒業されたのだと思う。
名も知らぬ3人の中学生に生活の潤いをもらった、なんとなく感慨深い体験だった。

そういえば、自分も中学生の頃、仲良し男子3人組みだった。
同じブラスバンド部で、帰り道も同じ方角、丁度3人の方角が分かれる辻に一人の子の家があり、
畳の茶の間のちゃぶ台を囲んでたむろしてから帰る。

その子は今でいう「鉄オタ」で時刻鉄、乗り鉄、で、学割と周遊券で乗り継ぎ乗り継ぎする乗車の旅にくっついていったりした。
そんな旅は早朝の横須賀線逗子駅の始発電車に間に合うように、その子のお父さんが車で送ってくれることから始まる。
車から真っ暗な外の景色を眺めながら、決まってカーラジオから流れていオールナイトニッポン2部や「メイタン」のCMを懐かしく思い出す。

もう一人は、洋楽好きで、茶の間でテレビ神奈川のMTVの小林勝也なんか観ながら、
マイケルや、スティービーワンダー、ライオネルリッチーだとかを真似たり歌ったりして笑い転げていた。
そう、はじめて武道館に行ったのも3人で、TOTO(メーカー名ではない)の来日ライブだった。

そんな仲良し3人も、卒業式のあと、同じように茶の間にたむろして、
三差路の辻でバイバイしたあと、3人で会った記憶はほとんどない。
会っていたのかもしれないけれど、あの頃のあの感じ、との違和感、
を否定したくて、記憶を操作してしまっているのかもしれない。

なんとなく「春」って中学生な気がする。
周りに脇目もふらない右肩上がりな直線的な生命。
霞んでいる雲が描く茫洋とした空は、不確定で永遠に感じた未来、のようだ。
そんな中学生の卒業式の帰り道の群れに、
親世代の自分が一人、紛れ込んだなら、
なんともいえない複雑な感情になるように、
時々、ふっと置き去りにされたような孤独と、寂しさを感じるのが
春だったりする。

2016/1/26 追悼

(追悼文というのはなかなかにムズカシもので、11月から書き始め、年をまたいでしまった)

11月末、武蔵野の林も例年よりもとんでもなく遅い紅葉となり、
落ち葉が散り始めて、さまざまな鳥の鳴き交う午前中の
少し明るい日差しの差す林の中を散歩するのは
「武蔵野の幸福」と呼べるような特異な快楽なのだと思う。
枯葉の匂い。
枯葉は空高くから次から次へと舞い降りてくる。
クヌギ、コナラのような雑木の同じような太さの木立のラインとその影が
ジャズのビートのように並び、目が躍動しつつも、心は静まってくるような
不思議な感覚。自由、に触れたようなそんな喜び。

そんな林を歩きつつも、なぜだか、心は
フィリピンはレイテ島の敗残兵となって島を徘徊し、
それと同時に、「天才バカボン」と赤塚不二夫について思い、
80年代のタモリや「俺達ひょうきん族」について考え
それと、現在について考えるのであった。
何だ、この混乱した感じ。
でも、こういった脈絡のない同時並行的な心模様が
ぐちゃぐちゃと展開しているのが、人の心模様というものではないだろうか?

しかし、そのぐちゃぐちゃの取っ付きは、しっかりとあって
一つは、奥成達さんが亡くなったこと、
もう一つは村井養作先生の昭和16年の日記を
東京芸大の芸大史100年編纂の資料室への収蔵の
橋渡しの役割を無事果したこと。
が、大きい。
太平洋戦争中の芸大の昭和16~20年は唯一残された当時の学長の20年の日記を除いて
まったく資料がなく、空白の歴史(芸大が戦災で消失していることも大きい)となっており、
16年の事細かな学校行事、カリキュラムが残されている村井先生の日記は
その空白を埋める、大発見、だそうで、
先生がこういった形で芸大に
名を残すとは、先生自身、想像もされていなかったのではないだろうか。

村井先生は、そのたった1冊だけ日記を残してなくなられた。
日記は、遺品整理をしていた息子さんが見つけた。
作業場の上には、天井裏を改造して作られた収納があり
天井のハッチのようなものを空けると梯子が下りてきて
昇降ができる。
普段は先生以外誰も踏み入れない。
その階段を上ったすぐ目につくところに
その日記がぽつんと置いてあったというのだ。
昭和16年、太平洋戦争に突入した年
先生は当時東京美術学校(現在の東京芸大)の3回生であった。

その年の元旦から大晦日まで、ほぼ毎日の生活の様子、学校の出来事行事、進路の悩み、親類家族のことなどが、
先生らしく事細かにまじめにつづられている。

他に、当時、日中戦争で大陸に出征している従兄との往復書簡が
なんと!すべて書き写しで記されてあったりもする。

その日記を、先生の奥様と姪子さんが活字に文字起こしされた。

日中戦争から、太平洋戦争に突入してゆく庶民の目線、学生の目線が生々しい。
例えば、戦意高揚に関係しない俳句部(先生が所属)が
廃部にされそうになって抗議したり、
いろいろな名称などが戦中用に変更されたり
じわじわと国家総動員されてゆく「空気」が見える。
16年前半の日中戦争中は、銃後の守り的なちょっとした高揚感と
なんとなくのんびりしたムードも描かれている。
が、太平洋戦争になると、ガラリと変わる。
ここから見えるのは、
国家も「かなり厳しい」戦争になることを「はっきりと」予見していた、
ということ。
村井先生は、繰上げ卒業、最初の学徒出陣となるわけだが
16年の日記なのでその後は描かれていない。
入隊し、身体を壊し除隊になり、南方に送られることはなかったが
友達はほとんど、南方への輸送船で撃沈されて亡くなっている。
きっと、このことを、ずっと胸に秘めておられて、
この日記を目につくところに置き続けたのでないだろうか。。。

この日記に登場し、先生と戦地から往復書簡している従兄(少尉)は
大陸から南方の激戦地へ転属となり敗戦となり捕虜となって
帰国後、長生きされたらしく、南方の戦争体験を出版もされている。
それが頭の片隅にあり続けたまま、
今年、大岡正平の「野火」が何度目かの映画化をされ(観てはいない)
さらに、湯川さんの人質事件で国家に見捨てられる様子が自分の中で結びついて
ずっと気になって躊躇していた(気力と気合がいる内容なので)小説版の
「野火」を読み始めたのだった。
偉大な小説家の実体験を伴った小説ゆえの、身震いする臨場感覚。
レイテ島の負け戦のさなか、
結核で国家から見捨てられた中年の日本兵(軍人出身ではない)の孤独な敗走が描かれている。
人間としての存在、尊厳の究極を問われるところまでおいつめられてゆく地獄絵図である。
また、生命の根源的なテーマが描かれているからだろうか、戦争など知らないこちら側の現実をグイグイ侵食してくる。。。

(このような経験をした人達が、戦後の日本で生活してきたわけだが
国家というものをどう見てきたのだろうか?)
戦後、どんなことをしても、どんな国民をも守るという、意志を持った国家に日本は変貌したのだろうか?
それが問われたのが、2015年ではなかったか。

それがない限り、「国家」としての強さなど実現しない、と思う。
いくら勇ましい法律が今後いくつできても。

一個人として切り捨てられた湯川さんや後藤さんは、きっと遠くに
野火の狼煙がたなびいているのをむなしく見たはずだ。
。。。。。。
国家にふりまわされ、悲惨な経験をした満州帰国組みで
幼少期に悲惨な体験をしたのが、赤塚不二夫だったことをはじめて知った。

そのきっかけは
奥成達さんが亡くなって「御別れ会」が開かれた11月の新宿の会場に置いてあった本の中の1冊
「破壊するのだ!!赤塚不二夫のバカに学ぶ」
その中に、達さんのインタビューが載っていたので帰りに本屋で買い求めたことだった。

奥成達さんの奥さん、ながたはるみさん(イラストレーター,エッセイスト)が自宅で開いていた絵画教室に、小中学生の頃、通っていた。
当時は森戸神社(葉山)近くの入り組んだ路地の奥の、古い2階建ての借家に住まわれていて、
葉山でも海辺の漁師町の風情が色濃く残るところだったが、
その頃はヨットの合宿をしている人々のサンダルにつけた砂がアスファルトに白く光って溜まっていた。
そこの1階のリビングが教室の日だけ開放されて絵を描いた。

必然、達さん(以降、奥成さんのおじさん)が家に居る時には、しん君、しん君、と、かまってもらった。
なぜか、こういう時になって、声色や言われたことなどを、はっきりと思い出すもので、
「しん君は、マジメだからさぁ~」とあっけらかんとしたカラスがひと鳴きするようなトーンの口調、
カラッとした笑顔でよく言われたことを思い出したりした。
(今、おじさんのやっていたことを知って、そりゃあ私がバカマジメに見えたことだろうと思う)
子供にも、大人のように話す、というか、誰にも同じように変わらなかったように感じた。

たとえば、こんなことがあった。
しん君さぁ~、とはじまって、「モンティパイソン」のビデオの全集がさぁ、税務署で経費とみとめられないんだよぉ~、
まったくぅ、なんかいい考えないかなぁ~。。。と小学生の私に税務相談がはじまったのだった。

口ひげに、色の薄いレイバーンのようなサングラスをして、髪はくせっ毛の鳥の巣のようなおじさん。
だけど、危険な感じや怪しさは微塵も感じない、不思議な存在であった。

当時は、奥成さんのおじさんが、どんな仕事をしていたのか、まったく知らなかったし、興味も別段なかった。
ただ、ジャズピアニストの山下洋輔さん(当時葉山在住)と仲が良く、
その息子のK君も同じ絵画教室で肩をならべていたので(奥成さんの息子のYくんも)、
そんな関係の何かなのかな~くらいに思っていた程度だった。

高校生になったころだったか、おじさんが、当時の葉山の図書館の館長さんと仲よくなったらしく、
新築されキレイになった葉山図書館で今でいうワークショップのようなものをやるようになって、それに出席するようになった。

今でも覚えているのは「悪女とは」といったお題。
田舎の高校生に実際「悪女」なんて、わかるはずもなく、
おじさんが作ってきたレジメの悪女とは、という羅列を読み上げるのを聞いていただけだったように思うが、
今になって思うと、そういった「遊び」のようなことを

タモリや赤塚不二夫なんかとワイワイ飲み屋でやっていたのをそのまま持ち込んだのだと思う。

何回目かのワークショップで、キノコの研究家のおじいさん(故人)が葉山に住んでいて仲良くなったことに触れたことも覚えている。
なぜ覚えているのか?けっこう衝撃的な内容で、そのおじいさんは山中をうろついては、危険なキノコを食べ、
2,3日山を彷徨するといったことをしているというのだ。
そんなことを嬉々として語っていた。

そういった興味が著書にむすびついていったのではないだろうか、と想像される。

法律にも慣習や既成概念やイデオロギーなどしばられない「フリーな人」。
菊池成孔(ジャズミュージシャン)には、日本のビートニクと呼ばれたりしているが、
輸入の思想体系に属すものではなく、日本の時代的必然性が生んだ、
被り物ではない肉体と魂そのものが、ビートニクの様相を呈していたのが奥成達さんだったように、思う。
全然ファッション的な、浮ついた、ものは感じなかった。
幼少期に受けた現代詩の洗礼をそのまま生きた人であったように感じる。
それは、編集ということに関しても変わらないスタンスだったのではなかろうか?

置かれた色そのものを感じ楽しむ絵画のようように、音楽のように、意味などの追求ではなく、
また、そこにイデオロギーや思想信条などの介入を許さず、
大上段にふりかぶったり、見栄を切ったりせず、
飄々と、とにかく感じるままに、おもしろいと思ったことを、「純粋に」自由にやったのだ。
それを貫くのは簡単そうで、凄くむずかしい。

それを漫画で表現したのが、赤塚不二夫であり、芸で見せた(おもしろがらせた?)のがタモリであろう。
パロディー、ナンセンスギャグ、などで見せた。

奥成さん一派のプロデューサーがタモリを表舞台にのし上げ、やがて、「ひょうきん族」、「笑っていいとも」のプロデューサーとなり、
時代を作ってゆく。

ナンセンスな笑いを、子供だった私はただただ面白おかしく御茶の間で楽しんでいた。
「天才バカボン」をテレビアニメで毎週楽しみに観ていた。

その、もっとも源泉が、すぐ近くにありながら、まったく知らなかったし、感じもせずに。。。。
なんでもそうだが、その源は、実にそっけない顔をしているもので、
鼻の利く狡猾な人々がエッセンスを抜き出し演出し、
それにあこがれる人々が換骨奪胎し、毒を抜かれて世に広まるものだ。

やがてそれらは劣化して霧消してゆく運命が待っている。
いまが、パロディーやナンセンスにとって、そんな時代かもしれない。
(コミケ文化は元気みたいだけど。。。)

そんな文化論は、さておき、奥成さんのおじさんに、最後にいただいた著書は「宮澤賢治、ジャズに会う」だった。
亡くなる6年前の著書。

その頃、病気のことも、治療方針なども風のたよりで聞いており、
せつない思いで連絡などして、その返礼でいただいた著書だった。

まじめな、論考で、宮澤賢治の1篇の詩をとっかかりとして、
戦前戦中のジャズ史を駆け抜ける、かなりおもしろい視点で描かれている。
世相や文学、世界史などと、ジャズ史をいったりきたりするので、
ジャズに詳しくない人にも充分にわかる読み応えがある内容、意外な発見も沢山あっておどろかされる。
先の村井先生の日記にも関連するのだが、戦中の音楽、風俗規制事情などが詳しく描かれている。

そして、奥成さんのおじさんは、詩とジャズで幕を閉じる。
。。。。。。。
村井先生が亡くなって、いろいろな関係者に先生のことをインタビューしてまわった。
先生があまり自分のことをおっしゃらない口の重い人だったので、
先生の足跡が時間とともにどんどん消えてしまう危険があった。
先生の経歴など詳しいことを調べるためには、どうしてもインタビューが必要だった。

それで、びっくりしたのだが、どの人からも、まったく違う人物像の先生が語られたのだ。
なぜだろうな~、と思っていたのだけど、ある時ふっと、それは、その人自身の見方とフィルターが見た先生なのだ、と気がついた。
先生を語っているようで、実は自分自身を語っているということだ。
そして、そういった他人の総体が一人の人間の像を作っているという不思議な真実を知った。
本人の思い、考えが、その人の人格を作っているわけではないようだ。

「破壊するのだ!!赤塚不二夫のバカに学ぶ」で赤塚不二夫を語った面々も、赤塚不二夫を語っているようで、
実は語っているその人自身が見える。
たぶん、無名の奥成達さんの記事の赤塚不二夫像が、一番真実に近いのだろう、と感じた。
他は、かなり色がついているんじゃないかと?

「野火」の中では、神について語られる。
常に神は黙っていて語らない。
その神に姿、形を与えるのは、ソレを求める人なのだ、といったことが描かれている。

人は実態があるので少し違っているけれど、似たようだな、と思った。

自分にとって村井先生と奥成達さんは自分のやりたいことに正直でそれを貫いた人。
私が与えた形はそういった形。
でも、かなり真に近いと思う。
なぜ、そう言えるのか?
それは、先生の日記(先生が実際感じていること)と、自分の先生の印象にブレがなかったから。
奥成達さんについては、子供世代から見た「おじさん」という側面を主に、書き残しておこうと思った。
きっと、こういう側面からの記憶は、誰からも、なかなかでてこないと思ったから。
誰の遠慮もないので、「事実」しか書いていない。

死にわかれる、ということは2度と会えないということ。
最近、その重たい事実が身にしみるようになってきた。
天国で待っていて、また会える、って信じたい。
それまで、はずかしくないよう、生きていかねばならぬのだなぁ。
そんなふうに、よく思う。
11月に書きはじめて、年をまたぎ、1月も後半になってしまった。
武蔵野の林は、ジャズの演奏も終わって、静かな会場となり、白い雪が舞い降りて
小鳥の声だけが、遠く、小さく、響くばかり

2015/10/12   HP移転完了

朝晩、足元の電気ストーブをオンにして
秋が少しづつ濃度を増してきたことを、やっと、実感する。
だらだらと夏のように暑かったり、急に寒かったりで
植物も季節がおかしくなってしまったようで
この時分漂う金木犀のさわやかな香りも、
9月早々に散って終わってしまい、
なんとなく味気なく気の抜けた秋の涼やかさだけがあり
それは、まるで冬の寂しさのような気配なのだけど
武蔵野の林は緑濃い晩夏の風情で
何か遠近感や影の配置が少しおかしい絵を見ているようで、おちつかない。

そんな、時空のおかしな世界で、いろいろ至らないところもあるが
HPの移転を完了させた。

HPの移転準備で作品画像群を掘り出し、並べたり編集したりしていて、
自分でいうのもなんだが、面白いものを作っているな~と思ってしまった。
しかし、その理由は、出会って作らせていただいた人の多様さにあり、
自分はオーダーされた人や家や持ち物と対面して感じ取り
それを梳いたり漉したりするフィルターのような役目と
実現させる手足のような役目を果したにすぎない。
たぶん、自分に作風というものがあるとしたら
そのフィルターとしての特徴にあるのかもしれない。
なかなか感じとれないものだけど、
沢山並べてみると、なんとな~くそれを包んで纏っているのが見えてくるような、、、、
ま、そんなものなのか。

まあ、そんなことを思いつつ作品群を眺めたりした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
20年以上の家具製作を振り返ってみて
完全に変わってきた感覚がある。
それは、材木に対する感覚で、節や傷に対して寛容になってきたこと。
若い頃は、そういったものがない材だけを選び使う感覚だったが
あらゆる材木のあらゆる面をいとおしく感じるようになってきた。
時々、節無し、柾で、みたいなことを若い人なんかに言われて
ハッと昔の感覚を思い出したりすることがある。
木を素材から樹木として捉えるようになったように思う。
それは、人間の捉え方にも通じている。
人の凸凹や癖こそ味。
そう強く感じるようになった。
強烈な個性みたいなものを指してのことではなくて
普通に暮らす、普通の人々のそういったもの。

だんだんと、自然にそんな感じになってきました。
さてさて、今後はどう変わってゆくのでしょうか?
なんだか、時代や時流とどんどん乖離していきそうで怖い。
でも、その先を、まだちょっと見て感じてみたい気もする。